1286話 森の中の勉強会
数時間後。
テミスとフリーディアは街道を外れた暗い森の中を突き進んでいた。
無論。整備された道どころか獣道の一つも無く、好き放題に生い茂る木々を潜り抜け、足元に生え揃う下草を踏み分けながらの行軍だった。
「ハッ……ハッ……ッ……!!」
「どうした? ついて来るだけで精一杯か? 周辺の警戒と索敵は本来ならば斥候であるお前の役目なのだが……」
「フゥッ……フゥッ……ハァッ……!!」
先を進むテミスが、おもむろに後に続くフリーディアを振り返って皮肉を投げつけるが、息を切らせているフリーディアは抗弁する体力すら惜しいのか、膝に手を付いてただひたすらに荒い息を繰り返していた。
……そろそろ限界か。
そんなフリーディアの様子を注意深く観察したテミスは心の中でそう呟きを漏らすと、ドサリと音を立てて肩に担いでいた荷物を足元へ下ろす。
「少し休憩だ。腰を下ろしても良いぞ」
「っ……!!」
ぞんざいに放たれたテミスの言葉に、フリーディアは疲弊の滲む表情を輝かせると、崩れ落ちるようにしてその場に座り込んだ。
事実。既に体力の限界だったのだろう。
身体を支える為に手を付いた膝は、生まれたての小鹿もかくやという程にガクガクと震えていたし、頬には既に球のような汗が大量に滴っていた。
だが、それは無理のない話で。
たとえ長距離の行軍や、終わりの見えない泥沼の戦いを経験していたとしても、足元もおぼつかない道なき道を進む中で、長時間の緊張状態を強いられる冒険者たちの行軍は、別種の厳しさを孕んでいるのだ。
尤も、ある程度のコツさえつかんでしまえば、気を配る箇所や楽な歩き方もわかるのだが、冒険者初日のフリーディアにそれを求めるのは酷というものだろう。
「さて……今まさに、その身を以て理解できたと思うが、我々が戦場で培ってきた経験など、冒険者稼業では大して役に立たん」
「えぇ……。でも、できれば……口で教えて欲しかったわ……」
「フン……言って聞かせた所で無駄だろう。お前達は、戦場の厳しさこそ、この世でもっとも深い地獄だと思い込んでいるからな」
「そんな事はッ……!!! ……いいえ、そうかもしれないわね」
「クク……素直なのは良い事だ。教える甲斐がある」
飄々と告げるテミスの言葉に、フリーディアは一瞬声を荒げて返しかけるが、すぐに思い留まるかのように声を詰まらせると、静かに肩を落とした。
相変わらず生真面目な奴だ。と。
事実を事実としてありのままに受け入れるフリーディアの姿勢に、テミスは密かに柔らかな笑みを零すと、胸の内で賞賛を送る。
ここまで己を厳しく律し、真摯たろうとする者は他に居ないだろう。
フリーディアとて、命を懸けて戦場に繰り出している以上、自らの役目にそれなりのプライドを持っているはず。
なればこそ、事実よりも感情が先走ってしまうのは当然の帰結で、より深い地獄を知る自分ならば、口頭で説明をされれば理解できると叫びたくなるものだ。
「行軍一つ取ってもこれなのだ。魔物や獣との戦闘とて同じなのは容易に想像が付くだろう」
「……理解はできるわ。でも、ごめんなさい。想像はできないかもしれない」
「フム……そうだな……」
そのまま、冒険者としての講義を続けたテミスにフリーディアが沈んだ声で言葉を返すと、テミスは小さく息を吐いて考えを巡らせた。
テミスがこうして真っ先に冒険者としての厳しさを教え込んだのには理由があった。
現実と想像の乖離は、時に致命的な隙となって牙を剥く。
それがこうした平時であればさして問題は無いが、戦闘中などに起きてしまえば、如何にテミスといえどカバーしきれるとは限らない。
ここは一つ……先輩冒険者として煮え湯を飲むとしよう。
その問題を如何にして説明するかと考えを巡らせた後、テミスは口元に笑みを浮かべて肩を竦めると決心を固めた。
そして、テミスは手近な木に背中を預けると、大きく息を吸い込んでから口を開く。
「魔族に人間。これまでお前が剣を交えてきた者達は、いかに強者といえど、ヒトという枠組みが存在したはずだ」
「えぇと……言いたい事は色々とあるけれど、きっとそういう事じゃないのでしょう?」
「クス……そうだな。かつてお前と何度も剣を交えた私といえど、口から火を吐く事はできんし、爪に猛毒を持ってもいない」
「……見た目に惑わされるな、という事かしら?」
「言葉にするのは簡単だが、つまりはそういう事さ。時に連中の仕掛けて来る攻撃は、強力な魔法よりも、卓越した剣技よりも厄介で予想外だ」
かつて、自らが戦った魔物を思い浮かべながら、テミスは噛みしめるようにフリーディアへと告げる。
あの時は、私が転生者であったからこそ切り抜ける事ができたが、ただ剣の腕が立つだけの人間であったならば、簀巻きにされたまま為す術もなくやられていただろう。
そんなテミスの心情を感じ取ったのか、フリーディアは静かに顔を上げて小さく笑みを浮かべながら相槌代わりに言葉を返した。
「やけに実感が籠っているわね? もしかして、先輩の体験談かしら?」
「あぁ……聞かせてやろう。ダンシングスパイダーという魔物を狩りに出た時の話さ」
テミスは何処か揶揄うようなフリーディアの口調に、酷く真面目な声色でそう前置きをすると、かつて自らが演じた死闘を静かに語り始めたのだった。




