119話 ほんのひと時の休息
「この病院だ」
明け方。血のように赤い朝焼けが彩る町に、二つの人影が肩を並べて立ち止まった。一人は、探偵のような帽子にプリーツスカートといかにもな格好をした女で、その傍らには外套を羽織り、そのフードを目深に被っていた。
「んっふっふ~……知ってますよぉ~。知ってますとも。白翼騎士団の中でも最年少にして切り込み隊長を務める若き騎士、リット・ミュルクさんの療養先。年が近いせいもあってかフリーディア様との距離も近く、副隊長のカルヴァス卿を右腕とするならば左腕に当たる人物ですね」
正面玄関の前に立つと、フィーンは懐から取り出した手帳を開いてミュルクの情報をつらつらと並べ始める。まさかとは思うが、この精度で様々な情報を握っているのだろうか?
「……そして、自覚はしていないようですがフリーディア様に淡い想いを抱いている……っと」
「ぶふっ!?」
フィーンが言葉と共に手帳をぱたりと音を立てて閉じると同時に、その隣で情報に耳を傾けていたテミスが勢いよく噴き出した。自覚はないが淡い思いを抱いているなんて、どうやったらそんな情報まで得る事ができるんだ!?
「おやおやぁ~? テミ……コホンッ! リヴィアさんもお年頃ですからね? こういった話にはご興味がありますか?」
「馬鹿かっ! そんな事を考えた事もないし、そんな暇も無いわっ!」
「またまたぁ~。そんな事言っちゃてぇ……照れ隠しをしても無駄ですヨ?」
フィーンは嫌らしい笑みを浮かべると、テミスににじり寄ってその脇腹を軽く肘でつついた。
「……あのミュルクがと少し驚いただけだ。私自身が誰かとそんな関係になる事は無いのだろうな」
「リヴィアさん……」
しかし、テミスは一瞬で冷静さを取り戻すと、どこか寂し気な雰囲気を滲ませて空を見上げた。フィーンから見たその姿は何処か儚げで、愁いを帯びたその表情は見惚れるほどに美しかった。
「さて……そんな事よりも行こう」
「はい? まだ病院は開いていませんし、ミュルクさんも寝ているのでは?」
テミスが視線を戻して歩き出すと、首を傾げたフィーンがその後ろに続く。しかしその影では、微かに頬を染めたテミスが言い知れぬ葛藤に頭を悩ませていた。
この世界で生きていくのであれば、女として生きていくべきなのだろう。だが幸か不幸か、私には男としての記憶と人格が備わっている。純然たる事実として、ルギウスやギルティアは美形やイケメンと言った類の連中なのだろうが、連中にそう言った思いを抱いた事は無い。むしろ、それに近い感情なら……。
「……っ!! 何を考えているんだッ!」
「んん? どうしました?」
「何でもないっ!」
病院の裏手に回ると、テミスは何かを振り払うかのように頭を振って立ち止まる。その実、フィーンが思う程テミスの心に余裕は無かったのだが、首をかしげたフィーンがそれに気づく事は無かった。
「さて……行くか。私の肩に掴まれ」
「へっ? 行くかっ……て? えっ?」
テミスは無感情にそう告げると腰の剣を抜き放ち、逆の手でフィーンの腰を抱きかかえる。流石のフィーンと言えど、ただの人間である彼女が奴の病室まで跳ぶのは不可能だろう。
「喋るなよ。舌を噛むぞ?」
「いやだからですね。なんで剣を抜いてって……凄く嫌な予感がするのです――がっ――ひっ!?」
フィーンがそう口を開いた刹那、彼女の体は凄まじい勢いで上空へと引っ張り上げられ、声にすらならない悲鳴がその口から小さく漏れた。
「――い。おいっ! フィーンッ!」
「――っ! なっ! なにをするんっ――きゃぁっ!?」
テミスの声にフィーンが固く瞑った目を開くと、目の前にはカーテンの閉じられた窓があった。そして、咄嗟に体を放して文句を言おうとした瞬間。滑り落ちるような感覚と共に奇妙な感覚に襲われた。
「馬鹿っ! 暴れるなっ!! 落としたらどうするんだ!?」
「ひぃぃっ……なななな……なんのつもりですかこれはぁぁ……?」
テミスが慌ててフィーンを抱え直し、フィーンもまた大慌てでテミスの体にしがみつく。テミスはあろうことか、病院の壁に剣を突き立ててぶら下がっていた。
「表から入れないのならば裏から入ればいい。空いているとは思うが、すまないがその窓を開けてくれ。逆の手が君で塞がっているのでな」
「も……もっと普通に入れば良いじゃないですかぁぁ……」
テミスに促されながら、フィーンが窓に手をかけて静かにそれに力を籠める。すると、カラカラと静かに音を立てながら窓が開き、内部の薬臭い空気が外へと流れ出て来た。
「よし。先に入れ。直ぐ下にベッドがあるからミュルクを踏んづけるなよ。面倒だ」
「む……無茶苦茶しますね……」
テミスは静かに呟きながらフィーンを窓枠に乗せると、その後に続いて病室の中へと侵入する。そこでは静かに寝息を立てるミュルクが、ちょうどベッドの中で寝返りをうったところだった。
「さて……我々も少しだけ休むとしようか。そう大した時間は休めないかもしれないが、何もしないよりはいいだろう」
テミスはミュルクに目もくれずにそう言うと、入口の戸の脇に腰を落ち着けて目を瞑った。監獄を脱出する時もかなり戦闘を繰り返したのだ、何をするにしても一度、少しでも体を休める必要がある。
「いやいやいやっ……回診とか配膳とかあるでしょう!? それに、ミュルク卿が目を覚ましたらどうするんですかっ!?」
「フッ。案ずるな。体を休めるだけで眠りはしない。それにフィーン……お前、隠密は得意なのだろう?」
「ぐっ……で、ですがっ……」
「ん……んぐ……」
「っ!?」
二人が声を潜めて言い合っていると、ベッドの方から微かにミュルクの声が上がった。同時に、ベッドに背を向けていたフィーンの肩が跳ね、ぎこちの無い動きで振り返った。
「………………だ、大丈夫そうです……ね……やはは……」
数秒の沈黙の後、ミュルクが再び寝息を立てはじめたのを確認すると、顔をひきつらせたフィーンが更に声を落として弱々しい笑みを浮かべる。
「………………」
しかし、彼女が視線を戻した先では、目を瞑ったテミスが微かに寝息を立てていたのだった。
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