幕間 或る夜のすれ違い
それは、月の綺麗な夜の事だった。
誰もが寝静まった深夜。ルギウスがふと目を覚ますと、静寂に包まれている筈の病室の空気を、微かな声のような音が揺らしていた。
「…………! …………。…………」
水を打ったような静けさの中にあって尚、耳を聳てなければ聞こえない程に微かな声。
しかし、その声は確かに聞こえてきて。
何かを堪えるように苦し気で艶めかしく、耳を澄ましているルギウスの鼓動を速めていった。
「…………」
何を馬鹿な事を。と。
ルギウスは一瞬だけ僅かに頭を過った可能性を即座に否定する。
この特別室にもう一人居る人物は、あのテミスなのだ。それにここは彼女の治める町、心安らかに深く眠る事だってあるはずだ。
だが……もしも、彼女の負ったケガが悪化し、苦しんでいるのだとしたら……?
新たに脳裏を掠めた可能性に、ルギウスの心は一瞬で絡め捕られると、まるで奈落を覗き込んだかのような不安に後押しされて耳をへと意識を集中する。
「っ……!! っぅ……!! ッ……」
「――ッ!!!」
確かに聞こえた。
とても安らかに眠っているとは思えないほどに荒い息遣い。そして、その声はまるで食いしばった歯の隙間から漏れ出たように抑えられ、聞いているだけだというのに何故か背徳感が湧き出て来る。
――具合が悪いのか……!? いや……だがッ……!!
テミスの無事を確認する為に声を上げる寸前で、ルギウスは視界の端に転がるボタンを捉えて声を詰まらせた。
そうだ。もしも具合が悪くなったのであれば、このボタンを押せば即座に詰めている者が駆け付けて来るはずだ。
ならば何故……?
そんな疑問が、ルギウスの内に湧き出た時だった。
「――っはッ……!!」
「っ……!!!」
これまで漏れていた息遣いよりもひと際大きな声が静寂を破り、ルギウスはビクリとその身を強張らせる。
加えてその声には、何処か艶やかささえ感じられて。
ルギウスはその声を聴いた瞬間、己が内で棄て去ったはずの可能性がムクムクと起き上がって来るのを自覚した。
あり得ない。
理性が、知性が、矜持がそう声高に叫ぶも、目の前から今も聞こえてくる押し殺したような声が、悉くそれを否定していく。
「…………」
嗚呼。勘弁してくれ。
全力で抗ったものの、己が内で出されてしまった一つの結論に、ルギウスは胸の中でそう呟きながら深くため息を吐くと、窓の外で暢気に浮かび続ける月へと視線を向けた。
本来なら、何も気付かなかった事にして再び寝入ってしまうのがせめてもの情けなのだろう。けれど、眠気なんてもう、完全に吹き飛んでしまっている。
……長い夜になりそうだ。
向かい側のベッドでは、テミスが密かに治癒魔法を用いて自らの傷を治しているなどとは露ほども知らず、ルギウスは月を眺めたまま静かに乾いた笑みを浮かべたのだった。




