1265話 怒りの在処
足元に青々と草が茂る草原の只中。
机も椅子も……それどころか風を防ぐ壁も、陽の光を遮る屋根すら無い。けれど、その場に漂う空気は鋼の如く固く重く、遠くから流れ聞こえてくる両軍の兵達の声さえ、緊迫したこの場では声を潜めているかのように聞こえる。
「テミス……君は、何かを忘れているんじゃないかい? 君達がラズールを発った後、ファントの町に真正面から斬り込んだことは知っている。勿論。何があったのかは問わないし、君が多忙を極めたである事は容易に想像できる。それでも……在るべき何かが無い筈さ」
「婉曲だな。今更そんな回りくどい言い回しをして何になる? お前達が今その胸中に抱いているのは、ファントへ兵を差し向けるほどの怒りなのだろう? 謎かけの真似事なんてまどろっこしい事をしていないで堂々と宣ってみろよ。お前達の要求を。死体の山を築いてでも押し通したいと願う欲求をな」
「――ッ!!!」
「――僕は。僕個人としては、恩人である君が治めるファントを攻めるなどという真似はしたくないのだけれどね。ただ、ラズールに住む人々を代表する者として、魔王軍の第五軍団を預かる軍団長として、責務を果たさなくてはならない時があるんだ」
だが、一言言葉を違えれば戦端が開かれてしまうであろうこの場に置いて尚、テミスが皮肉気で挑発的なその態度を崩す事は無く、それに反応しかけた部下達を抑える為に、ルギウスはバサリとマントを翻して言葉を重ねた。
そんなテミスの態度は、責められる謂れなど毛頭ないという本心であると同時に、ルギウス達から一つでも多くの情報を引き出す為の策でもあったのだが。
それも、怒りに駆られて何かを口走りかけた部下を諫めたルギウスの手によって、期待したほどの成果を得る事はできなかった。
「フン……軍団長様にご機嫌取りをさせるとは、ラズールの民は贅沢だな」
「っ……!! テミス……僕はできれば、君自身に思い出して欲しいんだ」
「愚問だ。下らん問いだルギウス。理解しているのか? お前が今、口にしている言葉は全て、耳障りこそ良いが強請り集りの類に過ぎないという事を」
「それは傲慢というものだよテミス。君ならば……少なくとも、魔王軍に居た頃の君ならば、彼等の思いは……僕達の怒りは解る筈だ」
「くどいぞ。お前達をそうまで駆りたてるほどの事になど覚えは無い。たかだか一軍を並べた程度で、謂れなき糾弾に黙って頷いてやるほど私は甘くは無い」
それでも尚、根気強く説き続けるルギウスの言葉を、テミスは冷ややかな笑みで一笑に伏すと、確固たる意志を見せ付けた。
同時に、テミスは頭の中で次なる口上を考えながら、ルギウスの言葉に含まれた情報をかき集めていく。
まず、今回の出兵はルギウス個人の意志ではない。彼自身はどちらかというとこの戦いには否定的で、むしろ彼の部下や領民の声に押されたのは、傍らで今も尚怒りに身を焦がすルギウスの配下たちを見れば想像に難くは無い。
だがそんな彼等の怒りには、ルギウス自身も理解を示しているらしい。
しかし、テミスには幾ら記憶を掘り返した所で身に覚えはなく、考えれば考えるほどに言い掛かりであるという結論を固めるばかりだった。
「……残念だ。君は少し、変わってしまったらしい。君がそうして指揮を執っているという事は、ファントで起きていた問題は解決したのだろう? 僕達はその結末を見届けに来たんだよ」
「何……? ルギウス。お前、本気で何を言っているんだ? 今回の一件についての報せは送ったはずだし、そちらで被った被害も十分に補填したはずだ」
そして遂に、深い溜息を一つ吐いた後にルギウスが根本の問題へと触れ始めるが、その内容はただただテミスを更に深い混乱へと突き落としただけだった。
マモルの命じた周辺地域からの略奪行為。その問題は全て解決している筈だ。
幸い、怪我を負った者は出たものの、死者は出なかったと報告を受けている。
だからこそ、奪われた商品の代金は言い値で支払ったし、迷惑をかけた分の慰謝料だって多めに出した。更には、怪我を負ったと言う者への見舞い金の支払いや治療でも問題は起きていない。
「そうだね。被害を受けた者達に対する補償は確かに貰っている。本当に……貰い過ぎなほどね。けれど、それはあくまでも君から……ファントからの謝罪であり補填。いわば奪われた物を返して貰っただけだろう?」
「あぁ……そういう事か……」
何処か苦し気に、同時に怒りも交えながら。ルギウスが続けた言葉によって、テミスは漸く合点がいった。
なるほど、何処まで行っても話がかみ合わない筈だ。
こちら側では既に終わったはずの話の続きを、彼等は当然のものとして求めているのだから。
「……解ってくれたかい?」
「ククッ……皮肉だな。あぁ、本当に皮肉だ。よくよく理解したよ。なれば猶更、私がお前達の身勝手極まる怒りを認める訳にはいかないな」
悲し気に眉根を下げて問いかけるルギウスに、テミスはクスクスと肩を震わせて笑い声をあげると、胸を張り、吹き渡る風にその長い白銀の髪をたなびかせながら、皮肉気な笑みを顔に湛えてそう宣言したのだった。




