1261話 安らかなる孤独
用件を済ませ、フリーディアと共にマーサの宿屋に帰り着いたテミスは、階下から聞こえてくる賑やかな声に耳を傾けながら、一人自室のベッドの上で身体を休めていた。
このまま何も起こる事が無ければ、新たに始めたこの体制も、ファントの新たな日常として溶け込んでいくのだろう。
だが、それはあくまでも表面上だけの話。本質的な問題が解決したとは言い辛い。
「漸く……楽ができると思ったのだがな……」
ボソリ。と。
テミスは重々しい口調でそう呟くと、力無く投げ出していた腕を持ち上げて目を覆い隠す。
白翼騎士団と黒銀騎団の二頭体制は本来、町の運営に専念する事のできないテミスにとって望ましいものだった。
政に長けたフリーディアであれば、ファントの町を正しく、健全に運営していくことに問題は無いだろうし、性格的に甘すぎる面も、サキュドやマグヌス、そしてカルヴァスたち白翼の側近共が居れば、行き過ぎた施しは矯正できたはずだ。
だが、その結果。
フリーディアは壊され、彼女が元の気質を取り戻す為には少なくない時間がかかるだろう。
緩衝材としての役割を引き受けたが故に、戦争の最前線という不毛極まる立ち位置から脱したファントの町も、屋台骨をも揺るがしかねない大損害を受けた。
「……疲れた」
唇の端から不意に零れた言葉は、テミス自身が驚いてしまうほどに弱々しく、その事実が更に心を深く沈ませていく。
はじめから無茶な話だったのだ。
少しばかり戦える力があるとはいえ、元を正せば私は政治家でも王族でもないただの小市民だ。
それでも必死に、常識と聞きかじった知識をかき集めて現状を理解し、時には自らの理解できる程度の制度へと作り替えて、騙し騙しではあったがこれまでやってきた。
だがそれでも、時折ふと思う事があるのだ。
こんな身に余る大それた身分を背負い込むのではなく、一介の戦士として剣を振るっていた方が良かったのではないか……と。
時折、階下の酒場で給仕を手伝いながら、自らの腕っぷしを頼りに冒険者稼業で稼ぎをあげ、町の危機には惜しむ事無く剣を振るう。
そんな、都合が良いばかりの『もしも』を空想しては、理想と現実の乖離に苛まれる苦しみを慰めているのだ。
「クク……我ながら……無様だなぁ……」
呻くようにそう零した言葉はゆらゆらと弱い光で照らし出される薄暗い部屋の中に消え、テミスは自分一人だけの世界の中を、心行くまで揺蕩っていた。
ここならば、誰の目を気にするでもなく、幾らでも弱音を吐く事ができる。
気丈に振舞っているつもりは無い。ただ自らの心が赴くままに、己が打ち立てた信念に恥じる事無く日々を過ごしているのは間違いない。
けれど、張り詰めたままの弓の弦が切れやすいように、ヒトの気持ちも時折緩めてやらなければ、いとも容易く弾け切れるだろう。
「あ~あ。勘弁してくれよ。私と対等に張り合うんじゃなかったのかよ。少しだけ期待していたんだぞ? だというのに、あんな程度で折れかけやがって……」
「……なんで。なんでアンタまでこっちに来てるんだ。しかもよりによって敵だと? ふざけるなよ。私はもう昔とは違う。邪魔をするな。放っておいてくれ。」
ふと気を緩めると、胸の奥底から次々と湧き出てくる思いを吐き出しながら、テミスは決して届かぬ言葉を虚空へ向けて吐露し続ける。
これは本来ならば、胸の奥底に留めたまま外に出してはいけない感情の奔流。
しかし、いつの間にかこの双肩に背負わされていたものは大きく、時折こうして吐き出してやらなければ、自分自身が押し潰されてしまいそうで。
だからこそ……テミスは独り、こうして決して誰にも知られない場所で、ひっそりと胸の内を吐き出しているのだ。
「まさか、今度はお前が付いてきてくれるとは思わなかった。私一人であったのならば、間違い無くもっとひどい被害が出ていただろう。ありがとう……感謝する」
「よくぞ……私の居ないこの町を護り抜いてくれた。不安だっただろう、苦しかっただろう。それでも、ただ私が帰ると信じて踏み止まってくれていた。勿体無い……私には、過ぎた部下達だ……本当に……良くやってくれた」
「…………ただいま。また……心配をかけて……ごめん。私は酷い事をしたのに……それでも、温かく出迎えてくれて……ありが……と……う……」
一人、また一人と自らの脳裏にその顔を思い浮かべ、テミスは飾らぬ素直な想いで語り掛けていく。
次第に紡がれる言葉は曖昧に解けていき、テミスの呼吸も深く、ゆっくりとしたものへと変わっていった。
そして、紡がれる言葉が途絶えてから暫くすると。静まり返った部屋の空気を、安らかで穏やかな寝息が揺らし始めたのだった。




