1251話 過去の灯
べっとりと鼻腔に粘つくような独特の臭い。
かつて慣れ親しんだその臭いを嗅ぎながら、テミスはきつく絞った雑巾を水へと投げ入れる。
積み上げられた書類の間に零れた灰と無数に転がる吸い殻は、テミスの心中にどこか懐かしい心地を感じながら小さく息を吐いた。
あの頃も確か、溢れんばかりに積み上げられた捜査資料と睨み合いながら、やるせない思いを紫煙と共に燻らせていたんだ。
「……? テミス? どうしたの? ぼうっとして」
「んん……? いや……な……」
ぎちり。と。
テミスは汚れた執務机の上を指でなぞると、小首を傾げるフリーディアに曖昧な言葉を返す。
この哀愁にも似た気持ちは、私の正体を知らないフリーディアに語る事はできない。
だがこの世界でも、マモルは紫煙を燻らせながら、酷く気怠そうに書類を眺めていたのだろう。
そういう意味では、この耐え難くも懐かしいこの臭いは、この世界にマモルが残した証の一つなのかもしれない。
「……いったいどれ程吸っていたのかと思ってな。これだけ臭いが染み付いているんだ。それこそ香でも焚いているかのように、片時も絶えず煙草を吸っていたようにしか思えん」
「そうね……確かに、私の記憶でも彼、常に煙草を咥えていた気がするわ」
「クク……そうか。ならば時折、自分が傍らに置いた煙草を忘れ、新しい一本に火を灯したりもしていたのだろうな」
「っ……!! えぇ! 確かにそんな事をしていた……って、何故テミスがその事を知っているの?」
拾い上げた吸殻を掌で弄びながら、皮肉気な笑みを浮かべたテミスがそう零すと、フリーディアは何かを思い出したかのようにピクリと肩を跳ねさせた後、怪訝な表情を浮かべてテミスを見つめた。
それもその筈だろう。
この世界において、テミスとマモルは戦場と化したこの町で相まみえただけの関係なのだ。
だというのに、普段の所作や癖まで知っているというのはおかしな話だ。
「何。昔、知り合いに愛煙家が居たからな。奴も似たようなことをしていたんだ」
「あぁ……そういう……。びっくりしたわよ。貴女とマモルが知り合いな訳が無いから、もしかして貴女が煙草を吸っているのかって思ったわ?」
「冗談は止せ。私は煙草は嫌いなんだ」
小さく笑みを浮かべて言葉を返したフリーディアに、テミスは吐き捨てるように応えると、掌の上で弄んでいた吸殻を指先で弾いて捨てる。
そうだ。昔も、最初は煙草なんて大嫌いだったんだ。
だというのに。何故かいつの間にか手放す事ができなくなっていた。
「ン……?」
再び過去の思い出に浸りながらテミスが作業を再開すると、丁度退かした書類の束の下から、拉げた小さな箱が一つ姿を現した。
ふと視線を落してみれば、その開いた口からは最後に残った煙草が一本、くしゃくしゃに曲がったひなびた姿を晒していて。
「クス……」
テミスは小さく笑みを零すと、書類の下に隠れていた煙草を箱ごと取り上げ、フリーディアから離れた部屋の隅の窓際へゆっくりと歩み寄った。
たった一本残った煙草を私が見つけたのも何かの縁だろう。ならば、この手にかけたかつての先輩への手向けとして、一つ燻らせてやろうか。
「小さき灯よ」
センチメンタルな気分に浸りながら、テミスはおもむろに手にした箱の中から煙草を取り出して口の端で加えると、そのまま掌で口元を覆って魔法を唱える。
すると、僅か一節の詠唱で構成される魔法は小さな炎となって掌の中で発現し、ジジッ……! という音を立てて煙草に種火を灯した。
だが。
「ッ……!? ゴホッ……!! ガハッ……!! な……何だこれはッ……?」
「テミスッ!? 貴女……何してるのよ……」
「ゲホッ!! ゴホッ……!! いや……一本だけ残っているものを見付けたから、果たしてどんな味なのかと思ってな……」
テミスが立ち昇り始めた煙を吸い込んだ瞬間、口の中をピリピリとした不快な刺激が暴れ回り、一瞬遅れてまるで身体が拒絶するかの如く激しく咳き込んでしまう。
そのせいで、何事かとテミスの方へ視線を向けたフリーディアが弾かれるように立ち上がって側まで駆け寄ると、手にした煙草を見て呆れたように溜息を吐く。
「酷い味だ。たった一口含んだだけだというのに、まだ口の中がイガイガする」
「全く……嫌いだと言っていたじゃない。ホラ。貸しなさい」
「あっ……」
あの世界に比べて、未だこの世界の技術が拙い所為だろうか。それとも、この少女の身体が紫煙を拒んだのか。再び口にした煙草の味は、二度と吸わないと誓うほどには酷い味だった。
煙草のもたらす刺激の暴力にさらされたテミスが、眉を顰めて感想を述べている隙を突いて、フリーディアがその手から煙草を奪い去ると、水の張られているバケツの中へと放り込んだ。
「えっ……? 何よ。そんな顔しているくせにもしかして、まだ吸うつもりだったの?」
煙草を奪われた瞬間にテミスの漏らした声に、フリーディアは驚いたような顔をして振り返ると、再び怪訝な表情を浮かべて問いかけた。
それは無論。テミスが密かに煙草へと込めた思いなど、フリーディアが知る由もないからではあるのだが。
「…………。いいや、水を変えて来なければなと思っただけさ」
だからこそ。
テミスはニヤリと口元に笑みを浮かべて手元に残った箱をクシャリと握り潰すと、小さく肩を竦めてそう嘯きながら、煙草の浮かぶバケツを拾い上げたのだった。




