1250話 紫煙の残心
「っ……!!」
フリーディアを執務室の中へと叩き込んでから数分。テミス達は胸の内に襲い来る緊張と不安に苛まれていた。
既に、フリーディアは閉ざされた扉を破る事を諦めたらしく、彼女の悲鳴は途絶えている。
加えて、扉の内から物音が響いてくる事も無く、扉に張り付いているテミス達には、その静けさが酷く不気味なモノに思えて仕方が無かった。
もしや、余りの臭いに耐え切れずに倒れてしまったのか……?
だとしたら、少なくとももう一度は室内へと突入して、フリーディアを救い出さなければならない。
「ひゃっ……!?」
「っぅぐっ~~!!?」
次第に鎌首をもたげていく不安に駆られ、テミスがぐるぐると考えを巡らせていた時だった。
突然、扉の向こう側から、コンコン……。と戸を軽く叩く音が響いたのだ。
その静かながらも迫力の籠った音に、テミスはビクリと跳び上がって悲鳴を上げかけるが、先に小さく悲鳴を上げたサキュドのお陰で瞬時に冷静さを取り戻し、喉から零れかけた悲鳴を無理矢理押し殺した。
「テミス。開けてくれるかしら? 言われた通り、窓。開けたわよ」
「あ……あぁ……」
「っ……!!!」
続いて、抑揚のない静かなフリーディアの声が扉の向こうから聞こえてきて、テミスは思わずその声に言葉を返すが、一瞬遅れて目を見開き、表情を青くするサキュドとゆっくり顔を見合わせる。
扉を隔てているここまで伝わってくるのは、途方もないフリーディアの怒りだった。
しかも、滾る怒りのままに声を荒げて不満をぶつけるのではなく、何処までも冷静に、静やかに、深く飲み込んだその怒りを燃やしているのだ。
「テミス様……これ……」
「…………。……行くぞ」
数瞬の沈黙の後。
テミスは真面目な表情へと戻って背筋を正すと、おずおずと扉を指差すサキュドにただ一言だけ言葉を返した。
この怒りを、私はよく知っている。
フリーディアは確かに激情家ではあるが、同時に恐ろしい程に理知的で、如何なる場面においても冷静さを失わない一面も持ち合わせている。
だからこそ、フリーディアが本気で怒った時は、こうして静やかに怒りの炎を燃やすのだ。
「……何か、言う事は?」
「…………。……ご苦労」
カチャリと扉を開いて第一声。
入室してくるテミス達を待ち構えるかの如く仁王立ちをしていたフリーディアが、真っ直ぐにテミスを見据えて静かな声で問いかける。
その問いに数瞬、テミスは執務室の中へと視線を巡らせて考えた後。真正面からフリーディアの目を見返して言葉を返した。
……任務は完璧に遂行されていた。
開く事の出来る窓は全て限界まで開け放たれ、平積みになっている書類の上には、手近な場所から乗せられたであろう重しまで番えられている。
ならば。命令を出したテミスが最初にすべき事は、困難な任を成し遂げたフリーディアを労う事だろう。
「……解ったわ」
「――待て」
そんなテミスの答えに、フリーディアは首だけで小さく頷くと、そのままテミス達を中へと導くように身を翻そうとする。
だが、テミスはその腕を掴んで引き留めると、そのままフリーディアの身体を引き寄せて抱き留める。
一方でフリーディアも、特に抵抗する素振りを見せる事無く上体を傾がせ、そのまま素直にテミスの腕の中へと納まっていく。
「済まない。顔色が悪い。無理をさせた」
「……気持ち悪いわ」
「窓際へ寄ろう。多少なりともマシになる筈だ」
「っ……何なの? この酷い臭い」
「煙草だ。それもこちら――ッ……! こんな酷い品質のな」
近くへと抱き寄せ、間近で見たフリーディアの顔は、一目見て分かるほど血の気が引いて青かった。
だがそれでも、気丈に不機嫌さを前面へと押し出して言葉を紡ぎ続けるフリーディアに、テミスは内心で少し感心しながらもその質問へと答えていく。
その途中。思わず、『こちらの世界』などと口が滑りかけたが、慌てて傍らの皿の上に残されていた吸殻をつまみ上げると、咄嗟に言葉をつなげて違和感をもみ消した。
「煙草には、血流を滞らせる作用があると聞く。お前は病み上がりの上に、煙草に慣れていない。何の備えも無しにいきなりこの香りを取り込んだことで、その作用が強く出たのだろう」
「……やけに詳しいのね」
「ある意味で、毒の一種だからな。出来るのなら、煮出した汁や水に溶け出した物も、直接触れるのは好ましくないんだ」
「なるほど……。だからこそ、あなた達の忠告を聞かずに装備を準備しなかった私を放り込んだのね……。それにしても、乱暴だと思うけれど……」
窓枠に体を預けるようにして外の新鮮な空気を吸わせてやると、フリーディアは少しづつではあったが、その言葉に力を取り戻していった。
同時に、自らの質問に対して真摯に答えるテミスの言葉に理解も示し、冷たく燃え上がっていた怒りも幾ばくか柔らかいものへと変わる。
「……兎も角、もう少し休んだらお前も装備を身に着けろ。用意はしてある。それから始めるぞ」
「えぇ……そうさせて貰うわ。その格好、冗談じゃなかったのね」
その身体を支えながらテミスがぶっきらぼうにそう告げると、フリーディアはコクリと頷いてから、三角巾に口布、そして前掛けに手袋と、完全装備に身を固めたテミスの姿をじっくりと見直して柔らかに微笑んだのだった。




