1246話 地獄に夢を見て
そこからの光景は、まさに地獄と体現して然るべきものだった。
自らの意志で立つ力すら失い、地面の上に崩れ落ちる挑戦者の男に、高笑いと共にサキュドが放つ拳打の雨が襲い掛かる。
しかし、男がそれを防ぐための手段は、折れ拉げた腕を翳す事だけで。だがそれも、鋭く放たれる小さな拳を受ける度に、自らの傷口を抉るに等しい激痛を男へと与えた。
「あガッ……!! ぶぺッ!! ごべッ……おべんなざッ……!!」
「キャハハハハッ!! 何言ってるのかわからないわ? ホラッ! もっとしっかりと喋りなさいッ? ホラッ!! ホラぁっ!!」
「がぁッ……!! ヒィィィッ……ブッ!! いぃ……ァッ!! やべッ……やべでッ……!!」
「クスッ……クスクス……。泣き出しちゃって馬鹿みたい。ああ……このまま続けると、汚い鼻水が付きそうで嫌ね」
「ぶふっ……ばはぁ~ッ!! あぉぁっ……!! プヒューッ!!」
泣きながら許しを懇願する男に、サキュドは突然ピタリと拳を止めると、血に濡れた手で頬に跳ねた返り血を滲ませながら、事も無げに嘯いてみせる。
それを境に、自らを打ちのめし続けていた拳が止まった男は、荒い呼吸を繰り返しながらも、原形すら留めぬ程に腫らした顔に僅かな安堵を滲ませていた。
男の胸中には既に、後悔しか無かった。
立身出世のチャンスだと、意気揚々とこんなものに参加するのではなかった。
ただ魔族を叩きのめすだけで特権が貰える美味い話だと聞いたのに……とんだ大嘘ではないかッ!!
苛烈極まる責め苦が終わった途端、腫れ潰れた男の瞳の片隅に、微かな憎悪の光が灯る。
こんな化け物が相手だなんて聞いていない。魔族って連中はもっと従順で、何を言っても困ったようにへらへらと笑っている連中の事だろうがッ!!
「アハッ……だ・か・らぁ……次はこっちね?」
「ギィヤァァァアアアッ……!?!? ゴ……ォァッ……!!」
ゴリィッ!! バギィッ!! と。
男の身体の中を厭な音が響き渡ると同時に、僅かに残った思考とこびり付いた憎悪が一瞬にしてはじけ飛んだ。
そして、僅かほどの空白すら無く、今度は辛うじて無事であった肩を、胴を凄まじい痛みが駆け巡っていく。
もう、どこが痛いのかなんて知覚すらできず、男にできる事はただただ次々と襲い来る痛みに悲鳴を上げる事だけになっていた。
「ぅ……ぁ……イヤだ……ぁぁ……こんなの……ヒィィィィィァァァァァッッ!!」
「止めだ……冗談じゃないッ!! こ……こんな化け物ッ……!!」
「んっん~? くふふ……情けなぁい。あんなに偉そうに魔族をコケにしていたのに。でもぉ……あ~あ。いけないんだぁ……」
無論。そんな惨状を見せ付けられて後に続こうと思う者など居るはずも無く、呆然とその様子を眺めていた後に控えている参加者たちの中から、泣き叫びながら遁走した者が現れたのを皮切りに、一人、また一人と恐怖に顔を歪ませながら、或いは精一杯の虚勢と共に捨て台詞を残して脱兎のごとく逃げ出していく。
だが、サキュドは自らが殴り潰した参加者の男に跨ったまま、ニンマリと血濡れた笑みを歪めると、逃げ出した者達の背に向けて蕩けたような声で語り掛ける。
その後を追う素振りすら見せない残忍な笑みは、まるでこの後に起こるであろう出来事を知っているかのようで。
「ああぁぁぁぁッ!! なんで……なんでこんなぁっ……!!」
「退けェッ!! 頼むッ!! 退いてくれぇっ!!」
そんなサキュドの視線が己が背に注がれているとも知らず、逃げ出した挑戦者たちは必死で叫びながら、見物に集まった兵達の人垣がひとりでに割れていく中を駆け抜けていった。
しかし。
「本来ならば、このような蛮行になど手を貸したくは無いのですが……貴方たちの誇り無き振る舞いは少々、些か、少し……いいえ。途方もなく不愉快ですッ!!」
「獣人ッ!!? おいお前ェッ!! そこを退けェッッッ!!」
「ハッ!! あんな化け物の相手なんざ冗談じゃねぇが、獣人程度ならどうにでもならァッ!!」
開かれた道に一人。遁走する彼等の前に立ち塞がるように、身構えたシズクがゆっくりと姿を現した。
その顔は紡がれる言葉の通り、不快感と嫌悪感が露になっていて。腰に提げられた刀は既に、その鯉口が斬られている。
それでも、半ば狂乱している挑戦者たちは立ち止まるどころか、立ち塞がるシズクを突破するべく、次々に得物を抜き放って突っ込んでいった。
「あ……れ……? ブ……ギュゥッ!?」
「あ……?」
「……舐められたものです」
そして、一瞬の交叉の後。
押し寄せる男たちの間を一気に駆け抜けたシズクは、パチンと涼やかな音を響かせて腰に刀を納める。
その凄まじい速さは、眼前で目の当たりにした兵士たちの間から、どよめきと感嘆の声が漏れるほどで。
けれど、当の切り結んだ本人たちは、自らが脚を斬られたことすら気付く事なく、全員が突然動かなくなった脚では勢いを殺す事ができず、顔面から地面に向けて転がっていった。
「私に課された役目はあくまでも足止め。故に、これ以上私は手を出すつもりはりませんが……サキュドさん。どうか十全に」
そんな挑戦者たちを一顧だにする事無く、シズクは淡々と言葉を紡ぎながら、まるで道を譲るかのように自らも人垣の一部と化した。
直後。そうして開けられた花道の向こうから、ずるり、ずるりと何かを引き摺る音と共に、血塗れの悪鬼がゆっくりとその小さな姿で挑戦者たちの前へと歩み寄る。
「クスッ……クスクスクスクスッ!! あれれ? どうしたのかしら? そんな所で寝転がっちゃって。あぁ……! 横になっていても余裕って事ね? そうよねぇ、お前達にとって、アタシ達は取るに足らないくらい弱い弱ぁい魔族なのだから」
「あ……ぁぁぁぁぁ……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいッ!!」
「ヒッ……うわぁぁぁぁぁあああああああッ!! 来るなッ! 来るなァァッ!!」
「まさか……揃いも揃って、コレみたいになぁんにも無いニセモノって事、あり得ないものね? さぁ、愉しませて頂戴?」
ドサリ。と。
恐怖と絶望の悲鳴を上げる挑戦者たちの前に、サキュドは手にしていた弱々しく蠢く男だったものを放り棄てると、高笑いと共にその血濡れた手を伸ばしたのだった。




