1228話 平穏の裏側
ゆっくりと昇っていく朝日と共に、何処か遠くの方から鳥の鳴き声が響いてくる。
ふと、疲れ果てた目を窓の外へと向けてみれば、幾つかの建物の煙突からは、モクモクと白煙が立ち上っていた。
「朝……か……」
まるで絵に描いたかのような平穏な早朝。
そんな朝を迎えるファントの町を眺めながら、テミスは絞り出すような声で呟きを漏らす。
最後にしっかりと眠ってから、いったいどれ程の時間が経っただろうか。
甘美極まる安らぎの時間を思い浮かべながら、テミスは溜息と共に自らの席へと腰を下ろした。
「今のところ、魔族たちの保護に対する反発が少ないのが救いだな……」
眼の下に拵えた特濃の隈をぐしぐしと擦ると、テミスは再び山のように積み上げられた書類へと視線を落とす。
マモルがファントにもたらした影響を濯ぐ作業は、少しづつではあるが今のところ順調に進んでいる。
元より、魔族と共に暮らしてきたという土地柄もあってか、武力を伴うような苛烈な反発は殆ど無く、そのお陰でテミスもこうして机に齧り付き続ける事ができていた。
それでも。魔族から奪うのではなく、人間に対してのみ優遇する数々の措置は未だ排する事ができておらず、やるべき仕事は売るほど溜っているのが現状だ。
「……ある程度の騒ぎは覚悟しなくてはな。他者が施される事に抵抗は覚えずとも、享受していたものが奪われるとなっては黙ってはいまい」
テミスは新たな書類を手元に引き寄せてカリカリとペンを走らせると、深い溜息と共に愁いを漏らした。
ひとまず、人並みに生きる権利すら奪われていた魔族たちは、強権と補填を以て明日をも知れぬ身では無くなったはずだ。
だが、応急的に施したこの補填も長く続ける事はできない。
マモル達によって作り変えられたシステムは、税を課したり権利を剥奪する形で魔族から奪っていたものを、人間に与える形で形成されており、搾取する側だけを廃すれば破綻が待っているのは目に見えている。
「マグヌスは……まだ……か……。サキュドは……暫く無理だろうな……」
頼りの副官達の顔を思い浮かべると、テミスは疲れ切った顔でその背をぎしりと椅子に預け、薄暗い天井を仰ぎ見た。
どう考えても、圧倒的に人手が不足している。
そもそも、この手の最終判断を下す事ができるのはテミスを含めた一部の人間しか居ない。
だというのに、フリーディアが倒れた事で白翼騎士団はまともに機能せず、制度を変えた事による様々なトラブルまでも降りかかってくる。
今回の一件の後始末に加えて、日常の業務やそれらのトラブルを捌き切るのは、テミスとマグヌス、そしてサキュドの三人では到底不可能だった。
「クソ……頭が回らん……ッ……!!!」
連日の激務に悲鳴を上げる頭をゴンゴンと殴り付けて、テミスは揺らぎかけた意識を無理やり現実へと引き戻す。
他の者達よりも頑丈な体質に物を言わせての強行軍を続けてきたが、どうやらそれもそろそろ限界らしい。
しかし、今はまだ夜が明けたばかり。
昨夜、渋るマグヌスを無理矢理休ませた時には既に街の灯りはほとんど消えていたし、サキュドに至っては少し前に潰れ、ゾンビのように覚束ない足取りでこの部屋を後にしたところだ。
仮とはいえ、このような状況で執務室を空ける事などできる筈もなく、交代のマグヌスが出てくるまでもうしばらく耐え忍ぶ必要がある。
「……。サキュド、廊下で眠ってなど居ないだろうな……?」
だが、幾らそう言い聞かせた所で、とうの昔に尽き果てた集中力が戻るはずも無く、テミスの頭はすぐに眼前の激務から逃避するかのように別の事を考え始めた。
思い返してみれば、この部屋から出る前にも何度か壁や机に頭をぶつけていたし、既に半分以上眠っていたように思える。
「っ……!! いかんッ!! さっさと次の仕事に取り掛からねば。なになに……? 自警団からの嘆願……書? 人員……不足につき大至急……? ふざけるなッ!! 自分達で魔族たちを追い出しておいて今更……何を……言って……い…………る」
少しの間身体をゆらゆらと揺らして他ごとへと思考を飛ばした後、テミスは慌てて我に返って別の紙束を引き寄せ、その内容を読み上げていく。
そして、全て読み終わる前に覚束ない呟きを垂れ流しながら投げ棄てると、そのまま糸の切れた人形のように、ゴトリと机の上に崩れ落ちたのだった。




