1226話 護る為の別離
先導する兵に連れられてテミスが詰所の入口へと赴くと、そこには眉根を寄せ、明らかに怒気を孕んだ表情で仁王立ちをしているアリーシャが待ち構えていた。
その顔を見れば、嫌でも理解できる。あんな表情をしたアリーシャなんて一度も見た事は無い。本気で怒っているのだ……と。
「案内ご苦労。下がって良い」
「っ……! はいっ……!!」
事前にアリーシャの怒気を察したテミスは、会話のできる距離まで歩み寄る前に兵を下がらせ、一人で待ち構えるアリーシャの元へと歩を進めた。
彼女が怒る……否、怒ってくれる事なんて、最初からわかっていた事だ。
だけど、これはこの先私が黒銀騎団を率い、ファントの町を治め続ける以上は避けられ得ぬこと。
私と共に居続ければ、これからもマーサさんとアリーシャを標的にする不逞の輩が現れるだろう。
少しばかり武術を仕込んだとはいえ、基本的にアリーシャもマーサさんも戦う力や術を持たない一般人だ。
底抜けに心優しい彼女たちを、私一人の我儘でそのような危険に晒し続けて良い訳が無い。
「テミス。私がなんでこんなに怒っているか……わかっているよね?」
「っ……。さぁ……何だろうか? 宿の前の修復や後始末に不備でもあったか?」
「――ッ!!! 違うわよッ!! そんな事ッ……!! どうだっていいッ!!」
静かに口を開いたアリーシャに、テミスは小さく息を詰まらせた後、密かに拳を固く握り締めながら、皮肉気な笑みを浮かべて言葉を返す。
その瞬間。アリーシャは怒りが振り切れたかのように歯を食いしばり、目尻に涙を浮かべて叫びを上げた。
「なんで……なんで帰ってきてくれないのッ!? 私……ずっとお母さんと待っていたんだよ? 後片付けをしていた兵士の人が言ってたのに!! もう全部終わったって!! テミスが戻って来たから安心だって!!」
「…………。全部終わった訳じゃないさ。今回ファントが受けた被害は見た目以上に大きい。全部元通りにしていくためには、途方もない労力と時間がかかる」
紡がれた悲痛な叫びに口を噤んだテミスに、アリーシャは叫びを重ねると、彼女の内心を表すかの如く、目尻に浮かべた涙が零れ落ちる。
アリーシャの言う光景は、テミスにはいとも容易く思い浮かべる事ができた。夜の帳の落ちた宿屋のホールで、町へ帰還したテミスを迎える為、ご馳走を用意して帰りを待ってくれている。
その手元にはきっと、あの時冷たく突き返してしまった部屋の鍵が用意されていて。
だが、テミスは毀れそうになる心を奮い立たせると、浮かべた皮肉気な笑みの端を微かに振るわせながら静かに言葉を返した。
それでも、やはり真正面から出て行くだなんて言える筈もなく。アリーシャの問いに直接答える事はできなかった。
「それでも今まではっ……!! ッ……!!! ねぇ、嫌だよテミス。寂しいよ。帰ってきてよ」
「ッ……!!!!」
遂に。堪えてきた感情が決壊したのか、アリーシャはボロボロと大粒の涙を流し始めると、後ろ手に隠していた手で給仕服のエプロンを固く掴みながら、弱々しい声で懇願した。
その手には確かに、あの日テミスが返してしまった部屋の鍵が握り締められていて。
それでも、テミスはギシギシと心を軋ませながら歯を食いしばると、アリーシャの言葉に応じる事無く沈黙を貫いた。
そう。今まではどんなに業務が忙しくとも、身体を休める際にはマーサの宿へと帰っていた。
だからこそ、業務が山積みになっている事は、あの暖かな宿に帰らない理由になるはずも無い。
「…………。すまない」
「――ッッ!!!!!」
長い沈黙の後。
はぐらかす事を諦めたテミスが、絞り出すような声で一言謝罪を口にする。
けれどそれは、決してアリーシャの求めていたものではなく。明確な拒絶の意志と、途方もない苦痛の籠った謝罪だった。
言葉に込められたテミスの意志が正しく伝わったからこそ。
アリーシャは喉からか細い悲鳴のような泣き声を漏らしながら、耐え切れずにその場に泣き崩れる。
「すま……ない……」
一方でテミスも。
先程まで浮かべていた偽悪的な皮肉気な笑みなど消し飛び、途方もない悲しみと苦悩に顔を歪てただ謝罪を繰り返す事しか出来なかった。
帰りたい。けれど帰れない。
許されるのならば、全てをかなぐり捨ててアリーシャを抱きしめ、泣きながら謝っただろう。
けれど、己に課した悪逆を誅すという砕けぬ誓いが、双肩に重くのしかかる町を護るという使命が、テミスにそれを許さなかった。
「ッ……ゥッ……グッ……!!」
泣きじゃくるアリーシャを前に、俯いたテミスは勝手に震える喉から震える吐息を漏らしながら、零れそうになる涙を必死で堪えていた。
苦しさはある。だけど、私に涙を流す権利は無い。
自分の都合で勝手に出て行くのは私なんだ。私では、四六時中ずっと側に居てアリーシャ達の身を守る事などできない。一方的に、身勝手な理由でアリーシャを傷付けているのは他でもない私なのだから。
「ッ……!!! っ……!?」
流す事の許されぬ涙の代わりに、固く握り締めたテミスの拳からポタリと一筋の血が滴った時だった。
地面だけが映っていたテミスの視界が突然引き上げられると、バチンッ!! と乾いた音とが響き渡ると同時に、鋭い痛みと衝撃がテミスの頬を貫いたのだった。




