1211話 零れたもの、残ったもの
それから事態が動いたのは、真昼を少し過ぎたくらい。丁度、考え続ける事に疲れ果てたテミスが、細やかな寝息を立て始めた頃だった。
その部屋の片隅では、机の上に置かれた空になったコーヒーのカップを誇らし気に眺めるマグヌスが付き添っていて。
心を削り取る戦いの日々の中、ほんの少しだけ訪れた安息がそこには確かに在った。
だが、僅かばかりの安息はすぐに過ぎ去り、階下をドタバタと駆け回る足音とテミスの名を呼ぶ声が響いてくると、マグヌスは音もなく立ち上がると部屋の戸へと足を向ける。
「……それは要らぬ気遣いだぞ。マグヌス」
「――ッ!」
「心遣いは有難く思う。だがあの様子では、追って叩き起こされる事には変わりあるまい」
しかし、そんなマグヌスの背後では既に、テミスが僅かな衣擦れの音と共に体を起こしており、その手が扉へと伸ばされる前に穏やかな声が投げかけられた。
「テミス様……ッ!! ……確かに仰る通りです。申し訳ありません」
「謝らないでくれ。今の私にはお前の細やかな気遣いは良く沁みる」
「ッ……!!! このマグヌス……今ほどテミス様と共に戦場に立てぬ事……!! 歯痒く思った時はありませんッ!! 無様に永らえたこの命……心より……心よりッ……!!!」
「止せ。無様などではない。たとえ戦えなくとも、私はお前がこうして生きていてくれて嬉しいよ。お前もサキュドも……皆、代え難い大切な者達だ」
「く……ウゥッ……も、勿体無き……お言葉……ッ!!」
「フ……尤も、今の私がこう言った所で説得力など無いだろうがな」
寂し気な笑みを浮かべてそう零したテミスに、マグヌスは固く歯を食いしばって嗚咽を堪えると、深々と頭を下げて体を震わせる。
一方で、テミスはマグヌスに優しい言葉を紡いだ後、感動に涙を流すマグヌスから視線を外し、自嘲の笑みを浮かべてぽつりと呟いた。
「テミスさんッ!! テミスさ…………えっ……?」
何処か湿り気を帯びた空気が室内に漂い始めると同時に、階下から響く騒がしい声が扉の前まで近付いてくると、血相を変えたシズクがテミスの名を叫びながら部屋の中へと飛び込んで来る。
だが、己が身へと叩き付けられるように開かれた扉は、戦えぬとはいえ強靭な肉体を持つマグヌスによって半ばで止められ、加えて妙な雰囲気の漂う室内へと飛び込んでしまったシズクは、酷く気まずそうに表情を引き攣らせた。
これは、とんでもなくまずい場面で飛び込んでしまったのではないか。
大慌てで部屋の中へと駆け込んだ格好のまま硬直したシズクが、頬に冷や汗を浮かべながら如何にして話を切り出すかを考え始めた時。
「ククッ……全く、いつも良いタイミングで駆け付けてくれるな。シズクは」
「へっ……いえ……あの……えっ……と……」
「気にするな。大事無いだろう? マグヌス」
「……!! はい。問題ありません」
テミスが肩を揺らしてクスクスと笑いながらそう告げるが、シズクは凍り付いたまま言葉を詰まらせ、その視線を俯いたマグヌスとテミスの間を素早く行き来させた。
焦っていたから、ほんの一瞬しか見えなかったけれど、この部屋に駆け込んだ瞬間のテミスさんは、とても儚げな表情を浮かべていた気がする。
それに、魔王軍時代からの副官だと紹介されたマグヌスさんに至っては、何故か顔を伏せて泣いているみたいだし……。
一度テミスに制されたことによって停止したシズクの思考は、改めて収集された眼前の情報を加えて、僅かな冷静さを取り戻して再び動き始めようとする。
だがその前に、チラリとマグヌスへと視線を向けたテミスがそう問いかけると、目尻に浮かんだ涙を払ったマグヌスは、即座に姿勢を正してテミスの問いに応えた。
「えぇと……それなら、良かった? ……のですが」
「そんな事より、何かあったんだろう? 先程からずっと騒がしいが」
「あっ……!!!!」
この部屋に来るまで駆られていた焦りなど完全に忘れてしまったかのように首を傾げるシズクに、テミスが小さな笑みを浮かべたまま問いかけると、本題を思い出したシズクの顔に再び焦りが戻る。
そして。
「町に出ていた者達からの急報ですッ! テミスさんのお家……いえ、マーサさんの宿屋にマモルと思われる人物が兵を伴って急襲ッ!! 宿に詰めていたヴァイセさんが応戦、交戦状態に入ったとのことッ!!!」
「ッ――!!!! マグヌス! 後は頼んだ! シズク! 付いて来いッ!!」
叫ぶように告げられた報告に、テミスは傍らに置いていた大剣を引っ掴んで弾けるように立ち上がると、鋭い指示と共に脱兎の如く駆け出したのだった。




