1204話 血濡れた手
その瞳に希望は無かった。
壊れた人形のように、瞳は何を見るでもなくただ空虚に宙を見つめるだけで。
拉げ捩じれた右手と両足が、殊更彼の異質さを際立たせていた。
「ヒッ……!?」
「目を背けるな。ソレがお前の半端な慈悲がもたらしたものだ。我が身をも棄てる覚悟も無く、かといって自分には救えないと見棄てる冷徹さも無い。そんな程度の信念で、窮地にある者を救う事ができる訳が無いだろう」
あまりにも無残な男の姿に、キールはビクリと身を縮ませて視線を背けるが、即座に頭上から降り注いだ冷たい声がそれを許さない。
先程までキールの身を満たしていた暖かな希望は何処へ消え失せたのか、今その全身を満たしているのは、真っ黒で重たいドロドロとした絶望だけで。
再び己が身に降り注ぐ恐怖と緊張に、キールは浅い呼吸を繰り返しながら胸の中で訳も分からず泣き叫んだ。
「自分の安全は譲れない。けれど、他人を見殺しにする冷たい者だと思われたくはない。その怠惰で傲慢な身勝手が、唯一その男に残っていた希望を掻き消したんだ。解るか? わからないだろうな。ソイツの心を折り砕いたのは、紛れもなくお前だ。キール」
「そんなッ……!!」
「考えてもみろ。この町の医術ならば、手足を折り砕かれようと命さえ残れば再び立ち上がる事ができるかもしれない。ならば、コイツからしてみれば、私の問いに答えずに痛みに耐え続ける事こそ最後の抵抗……希望だったはずだ」
「ッ……!!!! う……そだ……。だって……だってアンタは……」
「あぁ。どうせそんな事だろうとは思っていたさ。何ならこうしてお前に語り聞かせてやれる程度にはその心情を理解していたとも。だからこそ……己の口で語らせ、自らの手で心を折り砕いてやりたかったのだがな」
「あ……がっ……!!」
悪魔だ。と。
到底人の心を持っているとは思えない程に凄惨で残酷な狙いを平然と口にするテミスに、キールは心の底から恐怖した。
既に、傍らに転がる男の事や、彼に止めを刺したのが自分だという認めがたい暴論など気に留める余裕すら無く、ただただ目の前に立つ悪魔から逃れたい。生き延びたいという一心で、抜けた腰をずりずりと引き摺って後ずさる。
「クク……騎士の誇りとやらは何だったのか……。大の男が幼子のように漏らし、半べそをかいて逃げるだけとは」
「ひぐっ……!! く……くるなッ!!」
「そう怯えるな。何も痛め付けたりなんてしないさ。お前の心は既に折れている。後悔しているのだろう? こんなはずではなかったと。ならば……この男のように苦痛を与える必要もあるまい。一瞬だ」
テミスは呼吸を繰り返すだけの肉塊と化した男の身体を蹴って遠ざけた後、萎えた足腰を引き摺って逃れようとするキールへと詰め寄った。
その足元には、今も彼の尻の下から生じた染みが石畳の上を広がり続けていたが、テミスはそんな汚れなど歯牙にかける事すら無く、静かな微笑みを浮かべて冷たい瞳でキールだけを見据えている。
「はっ……あがっ……ぅぁ……ッ!!」
そんなテミスの冷酷な眼光に捕らえられ、キールはまるで駄々をこねる子供のようにイヤイヤと力無く首を振って涙を流した。
だが、その願いが叶えられる事は無く、大剣を肩に担いだテミスは数秒とかかる事無く、キールが必死の思いで稼いだ距離を詰めると、すっかりと陽の落ちた空に高々と漆黒の大剣を振り上げる。
この町に巣食った悪を許しはしない。
ふつふつと怒りに煮え滾る心の中で、テミスは静かに呟きを漏らす。
マモルがこの町にぶちまけたのは、楽という名の猛毒だ。一度与えられた利得を、人はそれが間違ったものだと理解しても手放そうとはしない。
他者を虐げ、楽に己が潤う事を覚えた者は、その快楽を忘れる事は出来ないだろう。
それは誰しもが持つ当たり前の感情。だが、決して芽吹かせてはならない律するべき悪魔の種なのだ。
それが芽吹いてしまえば、たとえ誇り高き志を持つ白翼の一員であったとしても、この哀れな男のように、自らが誰かを虐げているという自覚すら無く等しく悪へと堕ちていく。
「――っ!」
ならば一体……私は後どれだけこの町の悪人を殺せばいいのだろうか。
誰かを守るなどという甘ったれた正義感に酔うほど能天気では無い。だが、かつて焦がれた平穏と安寧を求め、仮初の享楽に惑う悪を断じた所で、残るのはうず高く積み上がる悲しみと屍だけだ。
果たしてそこに、意味など在るのだろうか……?
そんな、僅かに生じた迷いと共に、テミスは恐怖に目を見開いて凍り付くキールへ向けて、大剣を振り下ろしたのだった。




