1197話 変わらぬ笑顔
チリチリィッ!! と。
テミスがバニサスの姿を見取った瞬間、周囲の景色すら歪んで見える程に濃密な怒りと殺気が迸る。
無論。後ろに控えていたサキュドやシズク達がそれに気付かない訳もない。
しかし、眼前の誰かに向けられている訳でも無く無作為に放たれるその殺気の威力は凄まじく、サキュド達でさえも背筋を一気に粟立たせる恐怖に抗うのが精一杯で、指一本すら動かす事ができなかった。
だが。
「へへ……。折角こうしてまた会えたんだ。そんな怖い顔しなさんなって」
バニサスは疲労を色濃く滲ませる顔をくしゃりと歪めて笑顔を作ると、テミスの腕に為されるがままに脱力していた身体を起こして言葉を続ける。
「俺ァこの町が好きなんだ。テミスちゃんが居て、世話焼きなフリーディアの嬢ちゃんが町を駆けまわっているファントがな。この程度で棄てられるかよ」
「ッ……!!」
「けど……まぁ、何だ。勝手に思って居付いているだけだからさ。俺達の事は気にすんな」
「何……?」
「こうして町を見てると、俺達みたいな魔族以外の町の連中は辛い思いしてねぇみてぇだしよ。アイツはやべぇ……だから、あんま無茶しねぇでくれ。俺達だけの為に、テミスちゃんに怪我なんざして欲しくねぇ」
静かに笑みを浮かべながら石畳の上に座り直したバニサスは、テミスからは相も変わらずすさまじい威圧感が放たれるにも関わらず、そんなものなど微塵も感じていないかの如く、気負いの無いいつも通りの口調でそう告げた。
衛兵として勤めていた頃の彼からは想像もできない程に酷い生活を強いられているであろうにも関わらず、その言葉には悲観や諦観といった暗い感情も、彼をこんな暮らしに追い落とした者への怒りすらも含まれては居なかった。
しかし、このようなものを見せられて、そのような言葉をかけられてテミスが黙っていられるはずもなく。
「だから耐えるだと……? 受け入れるだとッ……? こんな理不尽をッ……!?」
「仕方ねぇさ。幸い、優しい皆のお陰で野垂れ死ぬ事は無さそうだしな。そうは言ってもあんまり迷惑はかけらんねぇのと……もうマーサさんの店に飯を食いに行けそうにねぇのは悲しいけどな」
「ッ~~~~!!!」
本当に。心の底からそう思っているのだろう。
バニサスは震える声で発せられたテミスの問いに淀む事無く軽い調子で答えを返した。
それを聞いたテミスは、頭蓋すら軋む程固く歯を食いしばると同時に、バニサスのボロ布を掴んだままになっていた手が固く握り締められる。
「……。ふざけるな。やめてくれバニサス……。私に何もするなと言うのか……? お前のそんな様を見せられて、この怒りを、憎しみを呑み込めと……? 出来る訳がッ……ないだろうッ……!!」
あまりの怒りに言葉も発する事ができず、鳴き声に似た微かな甲高い音だけが漏れる短い沈黙の後。
テミスは目尻から涙すら零しながら、怒りに震え、痙攣する喉の所為で途切れる言葉を辛うじて紡いだ。
「……ありがとうよ。その気持ちだけで十分さ。下働きよりもキツい役になっても、俺はこの町の衛兵だ。皆を護る衛兵が、自分の為に皆の幸せを……豊かさを奪っちゃいけねぇよ」
「が……ああああアアアアァァッッッ!!! 黙れッ! 黙れ黙れッ!! バニサスそれ以上喋るな命令だッ!! それ以上口を開けば、お前から奪った幸せで笑っている馬鹿共を皆殺しにしてやるッ!!」
「…………」
それでも頑なな態度を崩そうとしないバニサスに、テミスは溢れ出た感情のままに咆哮をあげ、眼前の壁に拳を叩きつけながら一喝した。
だが、バニサスは命じられるがままに口こそ噤んだものの、ただ困ったような苦笑いを浮かべるだけで。
その一挙手一投足が、己が身をも焼き焦がす程のテミスの怒りに、更に薪を放り込んでいく。
「フ……クククッ……!!! 良いさ。お前の都合など知った事か。すべて上手くやってやる。バニサス。数日だ。あと数日堪えろ。飯でも酒でも好きなだけ奢ってやる。そこで寝転がっているだけで構わん」
拳を壁へと叩き込んだまま、テミスは暫くの間身を震わせた後。目を血走らせ、その額に蒼々とした血管を浮かべながら、テミスを黙したまま見上げるバニサスに吐き捨てるような口調で言い残して身を翻す。
「フィーン。次だ。案内しろ」
「ひッ……!! ひゃ……ひゃいぃ……!!」
そしてそのまま、テミスはサキュド達の背中に隠れるようにして身を震わせていたフィーンを、漏れ出た殺気の迸る瞳でギロリと睨み付けると、足早にバニサスの前から立ち去っていったのだった。




