1186話 理想の残滓
かつて夢見た青臭い理想。今の自分には貴過ぎて、求める為に手を伸ばす事すら出来なくなった綺麗な世界。
そんな希望を追い求め続けていた彼女の揺るがぬ意志が、未だ残っているのではないか……と。
一縷の望みを託した問いに返ってきたのは、何一つ胸に響く事の無い残響だった。
「…………」
「テミス……さん……」
終わってしまったのだ。と。
心配そうにこちらを見つめて名を呼ぶシズクに、テミスは寂し気に微笑みだけを返しながら、胸の中で呟いた。
誰かに犠牲を強いた上に成り立つ幸せ。ただそれを突き詰めるだけの者の背に、誰が付いて行くというのだろうか。
現実を語り、効率を追った先に在るのは胸の高鳴るような夢ではなく、人を人として見ず、ただ無感情なだけの木偶があるだけ。
それならばまだ。たとえ決して叶う事がないと知りつつも、天高くそびえる理想を求めて手を伸ばし続け、あがき続ける者の方が『人』であると言えるだろう。
「違えたな……」
「……? 何を言っているの? 袂を分かったのは貴女でしょう?」
「いいや。道を違えたのはお前の方だ。フリーディア。なればこそ……私はお前との約束を果たさねばならん」
ボソリと酷く物憂げな声で呟いた後。テミスは静かにフリーディアを見据えてそう告げると、携えていた大剣を肩に担ぎあげる。
同時に、握り締めた大剣の柄がぎしりと音を立てると、目に見えぬ程に薄っすらとした微光が大剣の表面を走り、鈍く落とされていた刃がギラリと輝きを放った。
「私は何も変わっていないわ? 今までもこれからも、ただ人々の為にこの剣を振るうだけよ。自分の為だけに剣を振るう貴女とは違って……ね」
「クク……。少しだけ、あぁ……ほんの少しだけ、残念だよ。私が憎き悪を斬り、お前が人々を救う。まるで正反対な私達だからこそ、お前の謳っていた理想郷には届かぬとも、多少はマシな世界を見る事ができると思ったのだがな」
「あっ……」
言葉と共に、テミスが胸を張って一歩前へと歩み出ると、先程まで猛り狂っていた怒りは何処へ消え失せたのか、シズクが憐れみの籠った視線でテミスの背を見つめて声を漏らす。
シズクとて、詳しく知る訳では無いものの、テミスとフリーディアが浅からぬ縁である事くらいは理解できる。
そして、敵と化したフリーディアへと刃を向けるテミスが今、どうしようもなく心を痛めている事を慮るのも容易だった。
だが。
「私は大丈夫だ。シズク。あぁ……救われた礼がまだだったな。ありがとう。見事な刀捌きだった」
「えっ……? い、いえ……」
「まだ敵の増援が来るかもしれん。馬車に戻って皆を護ってやってくれ」
「ですがっ……!!」
「頼む。これは私の戦い……フリーディアと交わした最期の約束なんだ」
「ッ……!!! は……い……ご武運を……」
シズクに背を向けたまま、テミスが静かにそう告げると、何も言葉を返す事ができなくなってしまったシズクは、ただ一言だけ言葉を残して馬車へと踵を返していく。
そんなシズクの背を、テミスは肩越しにチラリと振り返り、柔らかな視線で静かに見送った。
「それで……? もう始めても構わないのかしら? 貴女、隙だらけなのだけど」
「別に……いつでも斬りかかってくればよかったものを。私が待ってくれと頼んだ訳では無い」
「相変わらず減らず口ばかりね……。見たところ……あの子が私の代わりって訳? 随分と入れ込んでるみたいじゃない?」
「ハッ……馬鹿を言うな。アイツはお前とは別物だ。私の何を勘違いしたのか、妙に懐かれてしまったがな」
その眼前で、フリーディアは頬を歪めて剣を構えると、切っ先をテミスへと向けて皮肉を叩きつける。
しかし、テミスはフリーディアの皮肉に動ずる事は無く、クスリと不敵な笑みを浮かべて肩を竦めてみせると、担いでいた大剣を悠然と構えてみせた。
もう迷いは無い。手加減も必要無い。もはやフリーディアは、私の知るフリーディアではなくなってしまったのだ。
多少の悲しさはあれど、出来る事はただ一つ。
この見るも哀れな夢の残骸を、この手で斬り伏せてやる事のみッ!!
「あら……それは可哀そうね。貴女みたいな根無し草なんて、見習った所で良いことなんて一つもないのに」
「フン……無駄だぞフリーディア。そう何度も同じ手は食わん。それに……今のお前に何を詰られた所で、込み上げてくるのは憐れみだけだッ!!」
そう心を固く定めると、テミスは言葉を重ねながらも油断なくテミスの隙を窺っているフリーディアに、悠然と笑みを浮かべて斬りかかったのだった。




