108話 息を潜めて
一陣の風が、遠くからすえた臭いを砂埃と共に運んでくる。
その強烈さを水で希釈したような奇妙な香りは、肺にこびり付くように鼻の奥に残り続けた。
「っ…………」
ザリッ……と。外套にすっぽりと身を包んだテミスは、一つの大きな建物の前で立ち止まると、それを見上げて全貌を瞳に収める。ところどころ欠けた煉瓦で建てられた年季を醸し出すその建物は、ロンヴァルディアに立ち並ぶ建物よりもかなり大きい。
「病院……ね。盲点だったな」
テミスはボソリと呟くと、懐に仕舞いこんだ小さな紙へと手を当てる。
アトリアの店でアントムが差し出したのは、彼が指揮する部隊への作戦指令書だった。その内容はケガ人の護衛と輸送で、事細かに定められた身体拘束の要件は、まるで患者が罪人であるかのような内容だった。
「にしても……奴か……」
テミスは外套の裾を風に遊ばせたままぽつりと呟いた。指令書に書かれていたケガ人の名はリット・ミュルク。テミスが知る限り白翼騎士団の中で最も若く、最も激情家で、尻の青い男だ。加えて言うのであれば、彼が床に伏す理由となっている傷は、他ならぬテミスが付けた傷だろう。
「ククッ……誉れ高き白翼の騎士様が、こんな外れの病院に軟禁とはね」
テミスはゆっくりと病院の壁にもたれ掛ると、皮肉気に頬を歪めてひとりごちった。指揮官であるフリーディアを抑えてまで私に食ってかかったヤツの事だ……恐らく今回の件でも感情に任せて色々と動いたに違いない。
「……さぞ、業腹なのだろうな?」
空を見上げて虚空へ問いかけると、上の方から窓が開く音がする。こんな淀んだ空気でも、患者にとっては病院の中の薬品臭さよりはマシなのだろうか。それとも、区画のちょうど狭間に建つこの病院には、この匂いを嗅ぎ慣れた者達で溢れているのだろうか?
「フム……それよりも問題はどう侵入するか。か……」
テミスは再び病院へと視線を戻すと、ため息交じりに呟いた。
わざわざ護送されたのだ、病院の人間は息がかかっているとみて良いだろう。もしくは、病院の中に護衛と称した監視役が居るかだが、どちらにしても正面から行くのは得策ではない。
それに、もう一つ問題がある。作戦書には病院までの護送は事細かに指示が書いてあるのだが、肝心の病室が書かれていない。つまり、アントムが担当したのはここ入り口までで、そこから先は病院に身柄が移されたのだろう。
「…………」
どちらにしても、いつまでも考え込んでいる訳にはいかない。機を逸してしまえば、せっかく得た情報が無に帰してしまう可能性すらあるのだ。ならば、一か八か大胆に動いてみる必要もあるだろう。
テミスはそう心を決めると、可能な限り自らの気配を消して外套のフードを外す。外套の下は小奇麗な旅人然とした服装だが、腰には剣を提げている。病院の中で頭まで外套を被っているのは逆に目立つだろうし、今はこれが限界だろう。
「よしっ……」
テミスは入り口の大きなドアを薄く開けると、その隙間から体を中へと滑り込ませた。瞬間。独特のキツい薬品臭が外気の臭さを上書きする。
「第一関門はクリア……か」
テミスは密かに胸をなでおろすと、柱の陰に身を潜めて素早く周囲を確認する。どうやら内装はあの世界の病院とは大きく異なるらしく、まるで教会の礼拝堂のようなホールには、少なくない数の陰気な顔をした人々が俯いて腰を掛けていた。
「道は二本……どちらも説教台の脇……か……」
流石に等間隔に並んだ石柱があるとはいえ、この衆人観衆の中を誰の目にも止まらずにあそこに滑り込むのは無理があるだろう。それに、どちらが入院患者を収容する病室に繋がっているのかもわからない以上、少し様子を見る必要がある。
「むっ……?」
カチャリ。と。
ふと耳に障る音が聞こえた瞬間。テミスは乗り出していた身を再び柱の陰へと潜めた。その瞬間。入り口のドアが開き、体格の良い一人の男が口を真一文字に結んで病院へと入ってきた。
「あれも患者か……? にしては、顔色は悪くないが……」
テミスが注視する目の前で、男は椅子に腰かけることなく前へと歩を進めていく。そのしっかりした足取りは力強く一定のリズムを刻んでおり、男が健康体であることを示していた。
「っ……! 見舞客か……?」
テミスは閃きと共に、男に並走して柱の陰を疾駆した。この男の後ろをついて行けば、病室へとたどり着けるかもしれない。
「むっ……?」
「――っ!?」
男が説教台の前を曲がり、テミスの方へと近付いてきた時だった。
ピクリと眉を動かした男が立ち止まり、テミスが潜む石柱を凝視する。
――感付かれた? テミスは石柱の陰に身を潜めながら、必死で息を殺していた。心臓が早鐘を撃ち、微かに息が荒くなる。
だが……どうして? 同時に緊張したテミスの頭を疑問がよぎった。私は完全に気配を消していたはずだ。ならば、一般人に感付かれることはまず無いと言っていいだろう。
「……いかんな。考え過ぎだ」
数秒の後。男は首を横に振って呟くと、そのまま歩を進めて目の前の通路の中へと消えていった。その男が凝視していた柱の陰では、遺されたテミスが額に浮いた汗を拭いながら息をついていた。
「奴め……軍人か?」
だが、それはそれで辻褄が合わない。監視の任に就いているのであればミュルクに張り付いていなければおかしいし、なにより追われているかのようなあの態度はおかしい。
「……どちらにしても、捨て置く事はできんな」
壁に張り付いたままテミスはそう呟くと、男を追って暗い通路の中へと飛び込んでいったのだった。