1175話 刻まれた恐怖
テミス達の馬車と第五軍団の兵士。両者が速度を緩めて止まると兵士たちの間から、焦りを顔に浮かべた一人の少女が駆け出してくる。
黒いスーツのような格好で身を固めたその少女は、焦りで顔を青くしながらテミスの前で止まると、馬上のテミスを見上げて口を開いた。
「貴女は……ファントの守護者……テミス殿……ですよね? あの……何故、ギルファーの馬車に……?」
「答える義務はあるのか? 悪いが急いでいるんでな。敵対の意志が無いのなら道を空けて貰おうか」
だが、その明らかに転生者である出自を隠す気が無い少女の格好は、テミスにとって疑惑の種でしかなく、テミスは冷ややかに駆け出してきた少女を見下ろしながら言葉を返す。
魔族たちの軍勢である魔王軍の中でも、ルギウス率いる第五軍団は人間に対して友好的だ。
だがそれでも、これまで幾度となく肩を並べてきたテミスであっても、彼の率いる者達の中に人間は居た記憶はない。
その証拠に、少女の背後で肩を並べる兵士達の中に人間は居らず、彼女だけが異彩を放っていた。
「っ……!! も、申し訳ありません! 名乗りが遅れました! 私はアナン! 魔王軍第五軍団長・ルギウス様の旗下にて、ラズール守護の任を頂いております!!」
「フム……?」
しかし、アナンと名乗った少女は顔に大粒の汗を浮かべてテミスの前に膝を付くと、身綺麗に整えた服が土に汚れるのすら厭わず声を張り上げる。
よくよく見てみれば、地に付いた手や張り上げた声の端も僅かに震えを帯びており、アナンが途方もない恐怖に抗っているのが見て取れた。
「ッ……!! ラズールの町にほど近いこの地も、我々の任地に含まれておりまして。魔法を用いた戦闘が発生したとの報を受け参じたのですが……!!」
「あぁ……そう言えばそうか。いつもとは逆側だから気が付かなかった」
緊張に緊張を重ねるアナンの口上に、テミスは周囲を見渡してから少し考えを巡らせると、納得したかのように頷いてから馬を降りる。
これまでは戦の折の縁もあってか、ラズールとのやり取りは人間領側の道を用いてきた。
だからこそ、魔王領側の街道であるこの道に見覚えが無いのも道理だといえる。
「ハッ……! つ、つきましては、お手を煩わせてしまい大変恐縮ではあるのですが、何があったのかをお教えいただけませんでしょうか?」
「教えられる事などそうは無いがな。ただ、街道を走行していたら何者かに襲われ、応戦したというだけだ」
「なるほどッ!! 撃退されたのですねッ!! 流石はテミス殿ですッ!!」
「…………」
恐る恐るといった様子で問いを放つアナンに、テミスはぶっきらぼうに短く言葉を返した。
一応、彼女の言葉に筋は通っているし、背後に並ぶ兵達の持つ装備は第五軍団の印が刻まれた正式な装備だ。
それでも、アナンが異質な人間である事に変わりはなく、故にテミスは警戒を解かずにこうして接しているのだが……。
アナンが恐れ、震えながらも職務をこなす姿には違和感しか無く、テミスは口を噤んで少し考えてから口を開いた。
「……アナンだったな? 何をそんなに怯えている?」
「えっ……!? ッ……いえ!! 決してそんな事はッ!!」
「嘘を吐くな。その格好を見ればお前が冒険者将校である事はわかる。そんなお前がルギウスの旗下で何をしている?」
「ッ……! ッ……!! アッ……ひィッ……!!!」
一歩。
アナンと向かい合ったままテミスは大股で彼女の側まで距離を詰めると、ビクリと全身を震わせたアナンを静かに見据えて問いかけた。
すると、ギリギリの所で平静を装っていたらしいアナンの顔が恐怖に歪み、目尻に涙を浮かべたままその場で腰を抜かして崩れ落ちる。
「ハァ……何だというんだ? まるで話にならん。次席指揮官は誰だ?」
そんな、今にも漏らしてしまうのではないかという程に恐怖するアナンを前に、テミスは溜息と共に困惑に眉を顰めた。
そもそも、これ程までに怯えられる事など身に覚えがないし、このアナンという少女とはこれが初対面の筈だ。
どちらにしても、このザマでは話にならない。そう判断したテミスが、兵達へとそう問いかけた時だった。
「それには及ばないよ。やれやれ……報告を受けてすぐ、慌てて出てきて正解だったね」
聞き覚えのある柔らかな声が響いたかと思うと、兵達の群れが左右に割れ、ルギウスが姿を現したのだった。




