107話 勇者の軌跡
アトリアから連絡があったのは、それから更に2日後の事だった。
その報せはちょうど、あまりにも集まらなさすぎる情報に業を煮やしたテミスが、朝食を食べながら襲撃計画を立てている時にやってきた。
「時間が掛かっちまってすまないね」
知らせに飛びついたテミスを出迎えたアトリアは、顔を合わせるなりにそう言って頭を下げた。
「アンタも飛び回っていたみたいだから知ってるとは思うけど、やけに情報が出回っていなくてね……」
「承知しているとも。それで?」
アトリアと共に店の奥のカウンターへと移動したテミスは、焦燥を抑えきれずに問いかける。私がこの町に着いてからもう5日も経っている。あのフリーディアの幸せ頭が、いつヒョードルの意図に屈してもおかしくは無い。
「この情報を得られたのはアンタのお陰でもあるんだけどね……その分、アンタの動きは奴等に筒抜けだ。……気を付けな」
「……?」
アトリアは低い声でそう告げると、カウンターを回って店の主である彼女の定位置へと腰掛けた。
「これから、ここに一人の男が来る。情報提供者だ。アンタを見てから、直接話がしたいらしい」
「……っ! 厄介な奴だな……罠の可能性は?」
「大丈夫だ。それはアタシが保証する」
アトリアは笑みを浮かべると、コクリと頷いて言葉を続ける。
「それに、アンタに会いたいってのもほとんど奴さんの事情だ。そんなに身構える事は無いさね」
「フム……」
テミスは喉を鳴らすと、腕を組んで息を漏らした。何にせよ、待ちに待った情報なのだ。どんな手合いだろうが聞かない手は無いが……。
カチャリ……。と。テミスの手が外套の下の剣へと触れる。アトリアを疑う訳では無いが、彼女自身が謀られている可能性もある以上、油断は禁物だろう。
「失礼……おおっ……やはり……」
テミスがそう身構えていると、声と共に一人の男が店の戸を潜って姿を現した。年の頃は中年位と言った所だろうか。杖をついた男は片足を引き摺りながら店の中ほどまで歩を進めると、どこか熱っぽい眼差しでテミスを見つめて深く頭を下げた。
「やはり貴女でしたか……噂を聞いてもしやと思ったのですが……あの時は、本当にありがとう」
「っ!? あの時……?」
男の発した言葉に、警戒していたテミスの体が凍り付く。ここは人間側の首都であるロンヴァルディアだ。間違っても、アトリアやフリーディアの他に知人などいる筈が……。
「ははは……覚えておりませんか。いや無理もない。貴女のような立派な方にとっては私など、救ってきた人間のうちの一人でしかありませんからな」
「んっ……?」
男はテミスの隣に腰を落ち着けると、朗らかな笑い声と共に優しく微笑んだ。その少し寂しそうな弱々しい笑顔に、テミスの記憶が微かに刺激される。確かに私はこの男に会った事がある……。それに、私が救った……だと?
「フフッ……いやはや、恩人を悩ませてしまうのは心苦しい。自己紹介をさせていただいてもよろしいですかな?」
「あ……ああ。すまない」
「いえいえ……こちらこそ、あの時は名乗る事すら出来ずに申し訳ありませんでした。なにせ、そのような余裕さえなかったもので……」
男は笑みを絶やさぬまま首を振ると、椅子から立ち上がって言葉を続けた。
「アントム・ラッセントと申します。階級は少佐……っと、失礼。貴女には肩書など関係はありませんな」
「少佐……だと?」
「ええ。以前は遠征師団を率いておりまして……深刻な被害を出しながらも魔王軍軍団長を一人討ち取った功績で昇進しましてな。まぁ、その時の怪我が原因で今は後方の輸送部を指揮しておりますが……」
「っ! そうか! 思い出した……貴方はあの部隊のっ……!」
眉をひそめたテミスの言葉に男が頷いて続きを語ると、テミスの頭を閃きが駆け抜けた。この男はあの日……私がこの世界に来た時に見かけた、あの石を投げられていた壊滅師団の中に居た男だ。まさか、いっとう酷い怪我を負っていたあの男が指揮官だとは……。
「思い出していただけたようで何よりです。あのときの部下共々、貴女には深く感謝をしております」
「っ……いや、気にしないでくれ。あれはただ、私が腹に据えかねて飛び出しただけの事だ」
アントムが再び頭を下げると、テミスは気まずげに彼から視線を逸らした。あの一件は私にとって無視できない光景だった。それは、冒険者将校となるのを取りやめる程であり、同時に現在の私の立場を作り出した根幹とも言えるだろう。
……そんな無慈悲な事実を、この優し気な男に告げる気にはなれない。
「……私は……リヴィアと言う。訳あって流浪の身なのだが実は――」
「はい。存じておりますとも。白翼騎士団を……お探しなのでしょう?」
「ああ」
テミスは自らの言葉を遮ったアントムに一瞬だけ目を向けると、再び目線を逸らして静かに頷いた。
「その理由はお聞きしますまい。他ならぬ貴女が探しておられるのだ……それに、フリーディア様には私も恩があります」
「…………慕われているのだな。彼女は」
「ええ。それはもう……」
長い沈黙の後、俯いたテミスが感慨深げに呟くと、アントムは深く頷いて微笑みを浮かべる。その微笑みには、父性にも似た優しさが滲み出ていた。
「おっと……許されるのならばこのまま思い出話に興じたい所ではありますが、私もいまだ軍に籍を置く身。あまりこうしては居られません。この情報でお役に立てるかはわかりませんが、お力になれれば幸いです」
そう言ってアントムは懐から一枚の畳まれた紙片を取り出すと、テミスへと手渡した。その隙間から僅かに見えた文字列に、テミスの目が見開かれる。
「これはっ……。アントム殿ッ! ご自分が今、何をされているのかお判りなのですか!?」
「ああ。承知しているとも」
「っ…………」
鋭く問いかけたテミスに、アントムは覚悟の籠った声で一言答える。その覚悟にテミスは、自らの背中が粟立つのを感じた。もしかしなくても、アントムは私の正体に気付いているのではないだろうか?
そう思わせるほどに満ち溢れた気迫と覚悟が、柔和さをかなぐり捨てたアントムからは発せられている。
「この情報……ありがたく頂戴します。なるべく、ご迷惑はおかけしませんので」
テミスはアントムにそう告げると、胸を満たす感情から逃れるように、受け取った紙片をくしゃりと握り締めたのだった。