1167話 惜別の朝
朝。
陽が昇ったばかりの極度に冷たい空気の中。テミスは独り白銀の館の戸を開けて寂れた街路へと歩み出る。
吹き荒ぶ寒風が目深に羽織った外套をバサバサと弄ぶが、テミスはそれを気に留める事すら無く足を止めると、背後を振り返って白銀の館を仰ぎ見た。
「…………」
何度見ても見事な偽装だ。
この中では、今もオヴィムや幾人かの兵達が寝息を立てているというのに、外面は周囲に佇む廃墟とまるで変わりない。
思い返してみればこの白銀の館には、意識を失った私が担ぎ込まれてから、随分と長く居付いたものだ。
そう考えると、所詮は仮宿だと割り切っていたはずのこの館にも、不思議と愛着が沸いて離れがたくなってくる。
「フッ……。住めば都……か。良く言ったものだ」
「あははッ……嬉しい事を言ってくれるね。君がこのまま、ずっとギルファーに留まってくれても良いんだよ?」
「ハッ……吐かせ……」
しかし、胸に去来した哀愁に浸る間もなく、テミスの背後からヤタロウの明るい声が朝の澄んだ空気を震わせた。
その声に応ずるように、テミスは皮肉気な笑みを顔に浮かべて背後を振り返ると、馬車とその傍らを歩くコハクやムネヨシといった、何やら大層な引き連れてやってきたヤタロウと真正面から向かい合う。
「私の……いや、我々の本心なのだけれどね。気が変わったらいつでも言って欲しい。まぁそれは兎も角……おはよう。テミス。良い朝だね」
「フン……目の下に如何にも徹夜明けの見て取れる隈を作っておいて出てくる言葉がそれか? 新たなギルファーの王は随分と働き者らしい」
「まぁね。無理をしなかったと言えば嘘になる。君を無事に見送ったら休むとするよ」
「……それで? どうせその隈の原因は後ろのソレなんだろう?」
挨拶代わりの皮肉を交わした後、テミスはヤタロウの背後にある馬車へと視線を移すと、微かに口ごもりながら問いかけた。
二頭立ての馬車は、客車の扉にギルファーの紋章がデカデカと掲げられている以外は、装飾の少ない簡素な見た目をしている。だが、車輪の鳴らす馬車特有のガタガタという大きな音はせず、車体の軋む音すら聞こえて来ない。
それが意味するところは幾つかあるが、少なくともこの馬車がとんでもない高級品であることは火を見るよりも明らかだろう。
「ふふっ。半分正解かな。我等ギルファーの誇る早馬二頭と、技術の粋を結集した最速の馬車さ。今後ファントとの連絡にはこの二頭を使おうと思ってね」
「随分と奮発したな。だが馬は兎も角、こんな代物まで出してしまって良いのか?」
「試運転も兼ねているからね、構わないさ。友の為だ。それにコイツも、いつまでも王宮の蔵で眠らせておくのはもったいないからね。本当は、私が城を抜け出した時に諸国を漫遊する為の秘蔵の品だったのだけれど……その必要はもう無いだろう?」
「っ……!! やれやれ、買い被られたものだ。ならばこちらは、せいぜい良いベッドでも用意しておくさ」
しかし、ヤタロウはそんな馬車の価値を冗談めかして茶化しはしたものの、決して恩着せがましく詰め寄る事は無かった。
だからこそ。テミスは皮肉気に歪めていた顔をくしゃりと緩め、悪戯っぽい笑みを浮かべて問いかけたヤタロウに、胸を張って答えを返したのだ。
「こいつなら、如何に遠く離れた地であるファントといえど数日とかかるまい。だが、一つだけ些細な問題点はあるが……」
「それは有り難いな。それで? 何が問題なんだ?」
「酷く目立つッ! なにせ、ただでさえ目立つ二頭立ての上に、恐ろしく早くて静かなのだ。見る者が見れば金塊が走っているようなものだろう」
「ハァ……了解した。金塊に釣られた間抜けの露払いは心得ておこう」
自慢気に言葉を付け加えたヤタロウに、テミスはクスリと苦笑いを零すと、小さく息を吐きながら、走る金塊と称された馬車を仰ぎ見る。
事態の発覚から僅か一晩。今後の為とはいえこれ程までの物を用意してくれたヤタロウには感謝しなくてはなるまい。
「是非頼むよ。そして……私が寝不足なもう半分の理由はこれさ」
「フム……その表情を見るに、愉快な報せでは無いらしい」
穏やかな空気の中。ヤタロウは笑顔でそう告げた後、表情を真面目なものへと切り替えると、懐から一束の紙束を取り出してテミスへと静かに差し出したのだった。




