1163話 ほんの僅かなすれ違い
「ヴァイ……セェェェェッッッ!!!」
窓を破って飛び込んだテミスは、ヴァイセの姿を見付けると同時に、雷鳴のような怒号を上げた。
見れば、武器こそ持ってはいないものの、今にも獣人の兵に掴みかからんとしているではないか。
ヴァイセの持つ技は、この身でしかと知って居る。奴がその気になれば、あの獣人の兵はすぐにでも細切れになってしまうだろう。
そんな事。させてなるものかッッ!!
「オオオォォッ!!」
「テミ――ギュブッ……ガ……ァ……ッ!?」
修羅のような鬼気迫る表情を浮かべたテミスは、窓から飛び込んだ勢いをそのままに驚愕するヴァイセへと掴みかかると、顔を鷲掴みにして床へと叩き付けた。
そして、テミスは勢いのまま押し倒したヴァイセの上に馬乗りになると、手早く腕を捩じって拘束する。
この格好ならば、ヴァイセが兵達に手出しをする事は不可能なはずだ。極めて緊急の事態だったため多少手荒な方法になってしまったが、病み上がりといえどヴァイセとてただの人間ではない。この程度でくたばってしまう程やわではない。
「無事かッ!? 他の者達はッ!?」
「へっ……? あ、はい……。自分は無事ではありますが……」
「ッ……!! クッ……!! 間に合わなかったかッ!! この大馬鹿がッ……!! 何人だ? この大馬鹿に何人殺られたッ!?」
「はっ……? いえ。怪我人も死人も我々の側に被害はありません。強いて被害と言うのならば、今貴女が破られた窓くらいですが……」
「……はっ?」
感情を露わにしたテミスが兵士に問いかけ、狼狽えた兵士が目を白黒させながら答えを返す。
そんなやり取りを数度続けた後。テミスが裏返った素っ頓狂な声で疑問符を上げたのを最後に、まるで時が止まったかのような沈黙が部屋の中を支配した。
一体。コイツは何を言っているのだ? ヴァイセが暴れたのだぞ? 死者どころか怪我人すら無いなどあり得ない。仮にそうだとしたならば、今度はヴァイセ自身の戦闘力に疑義が出てくる。
「えぇと……ですから、我々に被害はありません。それよりも、ヴァイセ殿を解放された方がよろしいかと。なにせ、目を覚まされたばかりなのですから」
「ム……あ……あぁ……」
「…………」
苦笑いと共にそう言葉を重ねられ、状況が呑み込めずに居たテミスは我に返ると、自らの下に組み敷いていたヴァイセの身を慎重に解放した。
確かに、言われてみればこうして拘束した後もヴァイセは、つい先ほどまでwれを忘れて暴れていたとは思えに程に抵抗する事無く、ただ為されるがままに黙っていた。
何かがおかしい。もしかして、ヴァイセは本当にひとりも傷付けることさえできなかったのか? だが……。と。途方もない違和感を胸に首を傾げるテミスの前で、ヴァイセは沈黙を保ったままゆっくりと立ち上がると、パンパンと軽い音を立てて身体に付いた埃を払う。
「ヴァイセ……? お前……そんなに調子が――」
立ち上がったヴァイセを前に、テミスは内心で危惧を覚えながら、恐る恐る話しかける。
もしも、ヴァイセの調子がそれ程にまで悪かったのならば、私の今の一撃はかなり堪えたはずだ。
今もこうして立ち上がってこそいるものの、そう思ってみれば脚が微かに震えているようにも思える。
しかし、テミスが言葉を紡ぎ終える前に……。
「――申し訳ッ……ありませんッッ!!!」
「ッ……!! ヴァイ……ッ!! セ……?」
ヴァイセは崩れ落ちたかのようにテミスの前に膝まづくと、深々と頭を垂れて大きな声で謝罪の言葉を叫んだ。
その迅速極まるヴァイセの所作は、心の底から彼の身体の調子を危惧していたテミスが、咄嗟に焦りの声を上げる程で。
だが、そんなテミスの焦燥もヴァイセの声によって吹き飛び、再び疑問符だけが部屋の中を支配した。
そんな中。
「ッ……!! テミスさんッ!!!」
「凄い音がしたわッ!! 大丈……夫……?」
バァンッ!! と。
部屋の戸がけたたましい音を立てて開かれると、そこから息を切らしたシズクとカガリが飛び込んできて、目の前に広がる理解不能な光景に動きを止める。
かくして。
既に混沌たる場と化した派手に窓が砕かれた部屋の中に、三度目の時が止まってしまったような沈黙が流れたのだった。




