10話 ノブレス・オブリージュ
「くっ、はぁぁ……」
熱い湯に浸かって、深いため息と共に脱力する。まるで、溜まった疲れが湯の中に溶けだしていくようだ。
「今日も……疲れた」
マーサの店で働き始めてから3日。初日を除いて店は連日満員御礼で、店の外にまで行列ができる程だった。
「別に、誘惑魔法とか使ってないんだがな……」
アリーシャ曰く、増えたほとんどの客が俺目当てだというのだから、何とも理解しがたい。
「そう見てて楽しい体でもあるまいに」
湯の中で、比較的小ぶりな胸を持ち上げて呟く。剣を振るう戦闘スタイルを想定していたので、邪魔になりそうな胸は小さめに設定したのだ。大きいと重くて肩が凝るとも聞いていたしな。
「だんだんと、目に見えるスピードで成長していくのを見るのが楽しいんだってさ」
「ファッ!?」
扉の開く音と共に、アリーシャの声が浴場に反響する。
「な、ななな、なんでっ?」
「えっ? 母さんが一緒に入っちまいなって」
「あ~……」
湯気の向こうのアリーシャの言葉に納得する。確かに、マーサさんなら言いそうだ。
「そ・れ・に、テミスは美人さんなんだから、胸なんて気にすることは無いよ」
「ちょっ、待て、どこを触っ……」
かけ湯をして隣に体を沈め、背中から胸に手を回してくる彼女のスピードは、目を見張るものがあった。
しかし、そんな些末な事よりも、一番困るのは目のやり場だ。ガワは女でも、一応中身は男なのだ。これも慣れてはいかないといけないのだろうが、いきなり湯を共にするというのはハードルが高すぎる。
「テミスはさ……」
結局逃れることは叶わず、湯の中でひとしきりじゃれ合った後、アリーシャが物憂げに口を開いた。
「もう少ししたら、居なくなっちゃうんだよね?」
「……ああ」
「やっぱり居心地、悪かった?」
俺から顔を背けるアリーシャの声に、悲しさが宿る。
「いや、もう3日も世話になっているが、やるべきことを投げ出してしまいたくなるくらい居心地がいいよ」
目を閉じて、素直な胸中を告げる。今日までの給金とチップを合わせてだいたい銀貨1枚分。あと数日働いて、この調子でチップを貰えれば、旅をするのには十分な金額が溜まるだろう。そしてその事実に、言いしれない程の拒絶感を覚え始めているのも確かだ。
「な、ならさ……ずっと居なよ。きっと、テミスのやりたい事、変わったんだよ」
湯の中を遊んでいた俺の手を、遠慮がちに動いたアリーシャの手がまるで引き留めるかのように捕らえた。
「…………」
彼女の言葉に、再び自分がここで働き続ける未来を空想する。珍しさが消え、客足も落ち着き、アリーシャと共に働いて。いつの日か、自分もアリーシャみたく、見事な客さばきができるようになるのだろうか……と。
――しかし。
「錬成。ウォーターソード」
テミスは甘えを断ち切るように、風呂の湯に手をかざして剣を錬成する。だれかにこの技を見せるのは初めてだ。
「テミ……ス?」
「アリーシャは、私が守る」
テミスは湯の色と同じ透明な剣を掲げて、誓うように言葉を紡ぐ。
「マーサさんも、バニサスさんも……皆。例え、どちらに付く事になっても。みんなは私が守る」
「解除」
言いたい事だけを言って、剣を湯に戻してアリーシャに笑いかける。形を失った湯が、音を立てて湯船に落ちた。
「この町は平和に見えるけど、やっぱり今は戦争中なんだ。戦争が終わればきっとこの宿はもっと有名になる」
「違っ……私が言いたいのはそういう事じゃっ――」
空いている方の指を立てて、アリーシャの唇に当て、言葉を止める。
やめてくれ、そんな顔で引き留められてしまったら、決意が揺らいでしまう。
「魔王がロクでもない奴で、人間たちも救いようが無くて、行き場に迷ったらそれも良いかもね」
下らない連中に利用されながら戦うより、一人の町娘として、マーサ達と共に過ごして笑い合う方がいい。そして、人間でも魔王でも攻めてきたら、この力を使って、町の人のために戦って……。
「そして……また……っ……?」
突如。幸せな空想を粉々に破壊するように、生前の記憶がフラッシュバックしてこの町の人々と重なった。
押し寄せる記者が衛兵に変わり、同僚達の冷たい視線がマーサ達へと変化して俺を責め立てる。何故、こんな力があるのに犠牲者を出したのかと。
「ヒッ……!」
突如、覗き込むように目の前に現れたアリーシャの顔に恐怖した。
――嫌だ。聞きたくない。本当にここでもそんな事を言われたら……。
「っ……⁉」
視界が一瞬で肌色のもので覆われる。錯乱した頭がパニックに陥りかけるが、頬から鼓動が伝わってきて、数瞬遅れてアリーシャに抱かれている事を理解した。
「ゴメンっ、テミス」
一拍遅れて、頭の上からアリーシャの泣きそうな声が聞こえ、背中に回された手に力が籠る。
「私、こんなだからわかんないけど……たぶん、またテミスの事を傷付けたんだよね。本当にごめん……謝るから、お願いだから、そんな顔、しないでっ……」
「あっ……」
アリーシャの声が湿り気を帯びる。この状態じゃ見えないが、きっと泣いているのだろう。
「私、いったんあがるね。ごめんね……」
柔らかな温もりが離れ、アリーシャが湯船から立ち上がる。
「待って」
その顔が浮かべていた痛々しい表情に、気付けば体が勝手に動いて、俺はアリーシャの手を掴んで引き留めていた。
「アリーシャは、悪くない。だから、聞いて?」
もう能力まで見せたのだ、話しても構わないだろう。
それに、一人で抱え込み続けるのも疲れた。自分が何者で……何を思っているのか。アリーシャに全てを話して、それで決めよう。身勝手だけれど、アリーシャに拒絶されるのならそれも答えだ。
「さっきも言ったけどさ……迷ってるんだ」
「……うん」
テミスはアリーシャを湯船に引き戻すと、ゆっくりと語り始めた。
「前は色々と言ったけれど、人間領にも優しい人は居た」
アトリアにフリーディア、それに名も知らない兵士達の事を思い浮かべる。彼女たちは素性の知らない俺に知恵や路銀を与えてくれ、何処の馬の骨とも知らない俺を自らの部隊へと誘ってくれた。
「アリーシャ達もこんな私を受け入れてくれたし、街のみんなも優しくしてくれている。ただ……」
魔王さえ。悪辣ならば……。
「っ……⁉」
「……テミス?」
「いや……」
アリーシャに言葉を濁しながら心を落ち着ける。俺は今、何と考えていた? 魔王が悪辣な事を願った? それはつまり……。
「はは……本当に、変わったのかもね」
テミスは話の脈略を無視して、心の中をさらけ出した。急に話が飛んだと言うのに、アリーシャは黙って頷いてくれる。
「今さ、魔王が本当に悪い奴だったらって。思った」
「魔王様が?」
肩まで使った湯を手のひらに汲み上げ、無意味に落とす。こんな手遊びをしなければならない程、動揺してるのだろうか。
「そしたらさ、アリーシャ達と……」
口に出そうとして、語尾が水音とともに消える。口に出してしまったら、本当に願ってしまいそうで……。
「でも。それは許されない」
「……そんな事――」
「力ある者には義務と責任が生じるんだ」
再び風呂の湯に能力を発動させて、落とした湯をそのままナイフに変え、断ち切るようにアリーシャの言葉を遮る。
「私は転生者……人間領で言う所の、冒険者将校なんだ」
「てん……せい?」
「ああ。こことは別の世界に居て……一度死んだ」
「死ん……だ?」
俺の告白を聞いた途端、アリーシャの顔が青ざめる。
とても信じられない話のはずなのに、素直に信じてくれるアリーシャには感謝しないとな……。
「前に居た世界で、私は警察……衛兵みたいな仕事をしていたんだ」
湯船から手を伸ばし、見えない拳銃を構えてみる。例え肉体が変わろうと、この身に染み付いた動作はしっかりと覚えていた。
「ある日、私は選択を迫られた。護るべき者の命と、自分の命、そして襲撃者の命。このどれか一つを切り捨てる選択を」
今でも鮮明に記憶に焼き付いた、あの事件の場面を思い出しながら言葉にしていく。迫る犯人と俺の足に縋り付く女。そして、懐の拳銃。
「私は、襲撃者の命を切り捨てた。それが正義であると信じて……。でも、その選択は受け入れられなかったんだ」
「えっ……」
黙って聞いていたアリーシャが、小さく声を上げる。
「町の人は私に、何故襲撃者を殺したのかと罵声を浴びせて、同僚たちからも蔑まれた。職も居場所も失って、私は死ぬことでここに逃げてきたんだ。もう次は間違えないって心に決めて。…………でも、このままこの町に住んで、さっきの力で皆を守ったら……またあの時と同じ事になるのかな?」
「バカッ!」
自分でも驚くほど弱々しい声で呟くように言葉を締めくくると、アリーシャの叫び声が浴室に響き渡った。
「テミスのバカっ! 私達がそんなことするわけないじゃんっ!」
言葉と共に、アリーシャに再び抱き締められる。
「話してくれて、ありがと。さっきのテミスはカッコよくてお姉ちゃんみたいだと思ったけど、やっぱり妹だ」
そんな事を言いながら、アリーシャは俺の頭を優しく撫でてくる。
「正しいことしたのに認められなくて、辛かったんだよね。頑張って守ったのにイヤな事言われて、苦しかったんだよね。それでもいっぱいいっぱい頑張って……苦しんで」
アリーシャの言葉に、背筋が凍り付き、胸の中に、言いようのない感情が込みあがってくる。
「大丈夫。もう、私は止めない。でも、私は、私たちはテミスを応援してるって覚えておいて。テミスの事も、信じてるから」
気づけば、頬を涙が伝っていた。結局のところ、俺も浅ましい人間だったのかもしれない。チヤホヤされるために人を守るのではないと言いながら、心のどこかでお前は正しいと……良くやったと褒めて欲しかったのだろう。
「くっ……ううっ……」
止めどなく、涙が溢れる。ただひたすらに胸が温かかくて、救われた気がした。せめてここに居る少しの間だけは、忘れよう。俺ではなく、私として。温かい家族と、笑って過ごそう。
「ふふっ……テミスは泣き虫さんだなぁ」
「う、うるさいっ……くっ、うぁ……」
はにかむように笑うアリーシャにからかわれても、涙が止まる事はなかった。悔しい訳でも、悲しい訳でもない。胸の中は、この身体を包むお湯のように暖かくて……。
「……アリーシャ」
「うん?」
アリーシャの胸の中でひとしきり泣いた後、気恥ずかしさを押し殺しながらボソリと姉の名を呼ぶ。
「……少し、考えても良い? ここに居るって話」
「うん。私は強くて可愛い妹、欲しいけどねぇ~?」
「っ……ありがと」
「ふふっ」
この一件を境に、どこか感じていた息苦しさは消え、俺はアリーシャ達の本当の家族のように、あたたかな空気の中で笑って過ごすようになったのだった。
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