1148話 意趣返しの飯
「さぁ、朝食だ。私が腕を振るった自信作だ。存分に食うといい」
十数分後。
テミスは生気の無い顔でホールに肩を並べる面々を見渡すと、カウンターの中から大きな声でそう宣言した。
しかし、大量の酒を飲んだ後の彼等にとって、眼前に良い香りを発する食糧を並べられる事など拷問に等しく、誰もが口を閉ざしたまま手を付けようとはしない。
それは彼等の間で交わされる無言のバトルロワイヤルであり、自らが脱落して生贄へと堕ちない為のせめてもの抵抗の証だった。
何故なら。救国の英雄にしてファントの主であるテミスの振舞う食事を断る事など、普通ならばできる筈もない。
だが、今食物を口に含めば吐き戻してしまう事は必至。けれど、テミスの作った料理を吐き戻しなどしてしまった日には、食事を誇示した時よりもひどい目に遭うのは明らかだ。
「う……ぅぅっ……」
頼むッ……!! 誰か……誰か手を付けてくれッ!!
声なき祈りが静まり返ったホールの中に充満し、微かなうめき声となって消えていく。
そんな一同の様子を、テミスは意地の悪いうすら笑いを口元に浮かべながら、酷く愉しそうに眺めていた。
「クク……」
これは一種の八つ当たりを兼ねた意趣返しだ。
眼前の重苦しい地獄のような光景を眺めながら、テミスは静かに喉を鳴らして胸の中でひとりごちる。
いくら酒を飲もうと酔う事のできない私が酒宴に参加すれば、アルコールに溺れて眠りへと落ちていく者達を尻目に、後始末に追われるのは自然の理だ。
だが、国が新体制へと移行して間もないこの時期に、王や重鎮を含む国の根幹を為す者達や、彼等を守護する者たちまでもが、こんな場所で酔い潰れて寝こけているとはいい度胸だといえるだろう。
そのせいで私は、何も起こらぬであろうと知りながらも、宴の後に夜を徹してこの館を守護する羽目になったのだ。
「ン……? どうした? あぁ……それだけで足りない者は遠慮なく申し出てくれ。品目を用意できなかったせめてもの詫びとして、お代わりはいくらでもあるからな」
「っ~~~~!!!」
テミスとて、かつての記憶から二日酔いの元凶であるアセトアルデヒドの海に溺れる辛さは理解できる。
だからこそ、用意した朝食は二日酔いの辛さを僅かながらも軽減し、かつ荒れ果てた胃に活力をもたらす献立なのだが。
尤も。そんな知識を持たない者達が、一口目を口に運ぶまでのこの葛藤こそが、テミスの求めていた慰みでもあるのだが。
「っ……!」
国の指導者たるヤタロウ達を含む皆が苦しみと葛藤に揺れ、それを愉しむテミスが悠然と眺める中。
全てを知り、察しながらも沈黙を守っていたオヴィムが、見るに見かねて口を開こうとした時だった。
これ以上黙ったまま動かずに居ても、事態が好転する事は無いと察したのだろう。
意を決したように手元に用意された匙を掴んだシズクが、決死の表情を浮かべて自らの粥を掬い上げた。
「ッ……!!!」
テミスさん……ごめんなさい!! と。
シズクは胸の中でそう叫ぶと、柔らかな出汁の良い香りと共に暖かな湯気をあげる粥を口の中へと運び入れた。
無論そこには、ここで肩を並べる者達と比べれば、幾ばくかはテミスと親しい自分なら恩赦が期待できるかもしれないという打算もあった。
だがそれよりも。敬愛するテミスが……残りは数えるほどしか共に過ごす事の無いであろう朝食を、手ずから用意してくれたという深い感謝の念と、そんな朝食にいつまでも手を付けられずに居る自らの不義を呪った心が、何よりシズクの身体を突き動かしていた。
「ンッ……!?」
鬼気迫る形相でシズクが粥を口に含んだ直後。シズクがくぐもった声を漏らすと同時に、ホールの空気が硬直する。
審判の時は来た。
誰もが胸の内で、自らの手で先陣を切ったシズクを讃えながら、彼女を犠牲に降って湧いた介助者という名の席へと狙いを定める。
この機を逃せばまた、あの不毛な戦いへと戻らなければならない。
そんな、ある意味で命懸けの祈りが淀んだ刹那の時間が過ぎた後……。
「……? っ……!!!」
ホールに集まった者達が、固唾を飲んで見守る中。
シズクは僅かに身体を硬直させた後、二匙め、三匙めと手を休める事無く粥を口の中へと運んでいく。
その表情も、悲壮感の漂う決死の覚悟を決めたものではなく、ただひたすらに無我夢中で、美味い飯を掻っ込んでいるだけのものだった。
「なっ……!?」
「嘘……だろ……」
「…………。ふっ……」
そんなシズクの様子に、ホールの中に動揺のざわめきが走り、絶望の呻きが微かに漏れ聞こえる。
しかし、テミスはニヤリと何処か嬉しそうに頬を歪めると、目を細めながらその視線を一心不乱に粥を食らうシズクへと注いでいた。
そして……。
「美味しいッ!! 美味しいですテミスさんッ!! 胸がむかむかして凄く辛かったですけど、これなら食べられますッ! いや……食べたら楽になりました! あのっ……お代わりを!! お願いします!!」
「あぁ……」
結局。そのまま器を空にするまで手を休める事の無かったシズクがそう声を上げると、テミスはクスリと小さく笑って身を翻し、シズクから空になった器を受け取って調理場へと消えていく。
そんな様子を目の当たりにして、それまで固唾を飲んだまま動く事の無かった者達も一人、また一人と、ゴクリと唾を飲み下してから、ゆっくりと匙へと手を伸ばしたのだった。




