105話 黒鳥の止まり木
アトリアから紹介された宿屋で部屋を確保したテミスは、荷物も置かずに部屋を確認だけしてフロントへと戻ってきた。
「おや……? どうされましたか? 何かお忘れ物でも……」
「いや。外出だ。門限やらはあるか?」
「はぁ……いえ、門限などは特に設けてはおりませんが、お食事が必要でしたら日暮れ頃までに、夜半以降は鍵を閉めますので、それまでにお戻りいただければ」
「そうか。了解した」
テミスはコクリと頷くと、フロントに背を向けて歩き出した。アトリアが勧めるだけあって、立地といい環境といいこのブルームは私にとっては最高の物が揃っていた。
「これは飯も期待できそうだな……」
「あ、お客様」
「ん……?」
テミスがそう呟くと、その背を宿屋の主人が呼び止める。何か注意事項にでも漏れがあったのだろうか?
「お食事はどうされますか?」
「ああ、そうだったな。頼みたい。夕暮れまでには戻るから、期待しているぞ?」
「はっ……はい。畏まりました!」
「……?」
そう言えば、自分の用件だけを告げて食事の有無を伝えていなかった。テミスが主人に謝罪の意も込めて言葉を付け加えると、驚いた顔をした主人が頭を下げた。
「……どうした? 何か変な事を言ったか?」
「いっ……いえっ……」
テミスが首をかしげながら訪ねると、主人は恐縮しながらぶんぶんと首を横に振る。その態度は明らかに何かがあると言っているようなものだが……。
「すまない。この地での俗習には不慣れなんだ。何か私におかしなところがあったら、遠慮なく教えて欲しい」
「いえっ……その……」
テミスが問いかけると、頭を上げた主人は困り果てたようにその後頭部を掻いた。これまでの経験から、逗留先の宿屋との関係は良好にすべきだと考えたのだが、何か様子がおかしい。
「客だのなんだのと本当に気にする事は無い。と言うか、逆にここまで伏せられると気になって仕方が無いのだが……」
「はぁ……では、失礼を承知で伺いますが……何故、あなたのような英雄様がウチのような宿屋に……?」
「はっ……? 英雄? ま、待て主人……その話を何処で聞いた?」
気まずげに口を開いた主人から飛び出したのは、テミスには全く予想外の言葉だった。てっきり、何かしらの不文律的ルールを破っていたのだと思ったが……。いやそれよりも、何故郊外にあるこの宿屋の主人があの一件を知っている?
「ハハハ……何処で聞いたも何も、今ロンヴァルディアはこの話で持ち切りですよ。突如王都を襲撃した十三軍団を、たった一人で退けた、かの悪魔と同じ銀髪を持つ冒険者が居る……とね」
「っ……同じ銀髪……ね……」
笑い声を上げた主人に、テミスはぞわりとした怖気を覚えた。同一人物なのだから同じ髪を持つのは当然なのだが、噂にまでなっているとなると少し気を付けた方が良いのかもしれない。
「それに、お部屋を見るだけで降りて来られましたので……てっきり、お気に召さなかったと思いまして」
どうやらこの主人、噂話に恐縮していただけで本当は喋り好きな性格らしい。一度話したら勢い付いたのか、主人は苦笑いを浮かべながら言葉を続けた。
「そしたら、お食事は要ると申されましたので……それで、少しばかり驚いてしまったのです」
「なるほど。見ての通り私は軽装なのでな……部屋に置く物が無かったのだ。部屋は広いし綺麗だし、気に入らないなんて事は無い。むしろ食事にも一層の期待が膨らんだという物だ」
「それはそれは……ありがとうございます。一層、気合を入れてお作りしなければなりませんな」
「ああ。頼む」
テミスはカラカラと笑い声を上げた主人に微笑みかけると、軽く手を振ってから宿の戸を潜って外へと足を運んだ。空を見上げると、傾きかけた太陽がまだ眩しい光をぎらぎらと王都へ注いでいた。
「フム……夕刻までとなると大した時間は無いな……」
テミスはそう呟いて少し悩むと、今日は一日この町を探索する事に決めて、中心部へ向けて歩き出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
王都ロンヴァルディアは、大きく分けて三つの区画に別れている。
まずは市民区画。メインストリートを中心に広がる最も広い区画で、ロンヴァルディアの大半を占めている。アトリアの冒険者ギルドやフリーディアに招かれた食堂などもここに建てられていた。
次に貴族区画。メインストリートの奥に存在する区画で、王城を中心に見るからに豪勢な建物が立ち並んでいる。貴族区画には騎士団の詰め所もあり、恐らくここにフリーディアが囚われているのだろう。
「そして……」
テミスは呟くと、目の前に広がる陰鬱な光景に目を細めた。
今、目の前に広がるのは貧困区画。メインストリートから離れた最外周に存在するロンヴァルディアの闇であり、ここでは行き場の無い人々が明日をも知れぬ日々を送っていると言う。
「参ったな……予想以上に広い……」
テミスはそう零すと、貧困区画に背を向けて歩き出した。市民区画の酒場で聞いた話を確かめに来たのだが、時間的にそれを探している暇も無さそうだ。
「まぁ、眉唾な話ではあるし、手すきの時に確かめに来れば良いさ……」
テミスは歩きながら貧困区画を振り返ると、ボロボロの服に身を包んだ少女が薄汚れた塊を手に道を横切って行った。酒場で出会った男の話によれば区画なんて物は整備されていないらしいが、こうして実際に歩いてみると明確に分かれているのが見て取れた。
「ざっと見たところ衛兵も配置されていないし……貧民は都合のいい肉の盾という訳か……」
テミスは吐き捨てるように呟くと、どんどんと弱くなっていく日の光を浴びながらブルームへの帰路を急ぐのだった。