幕間 明日への逃避
ギルファーの貴族街であるエモン通りの夜は早い。
連日深夜までにぎわいを見せる市街中心の繁華街とは異なり、エモン通りに軒を連ねる店々は日暮れと共に店仕舞いをし、夜はごく一部のお得意様からのみ受け付けている注文に対応している。
故に、ギルファー特有の雪深さも相まって、エモン通りの夜はまるで区画一つが眠りについているかの如く、ひっそりと静まり返っているのだ。
しかし今日は、そんな安穏たる静けさを切り裂いて、荒々しい叫び声と足音が響き渡っていた。
「逃亡だ!! 絶対に逃がすなッ!!」
「何処へ逃げたッ!! こちらには居ないぞッ!!」
「こちらに足跡があるッ! まだ近くに居るはずだッ!!」
騒ぎの火元はエモン通りにある一つの店。軒先に万事屋の名を掲げるその店の前には数名の兵達がたむろし、その周囲を彼等の部下達と思われる兵士たちが口々に叫びを上げながら駆け回っていた。
「隊長殿!! ご無事ですかッ!?」
「ゴホッ……ゴホッ……ヌゥゥッ!! 触るな! これしきの事屁でも無いわ!! あの腐れ商人め……舐め腐った真似をしおってッ!!」
「も、申し訳ありませんッ! ですがまさか、王城からの迎えである我々から逃げようなどと企むとは……」
「ですが、流石隊長殿です! いち早く奴の企みを見抜かれるとは!」
「黙れ! 口先だけの媚びを売っている暇があったら成果を見せろ! さっさとあの腐れ商人をここへ引っ立てて来いッ!」
「まさか! 媚びだなどととんでもない!! これは紛れもない本心です。奴も今全力で捜索に当たっております故、すぐに見付かるかと」
店先では怒りの収まらぬ近衛隊の隊長と随伴の兵達が、そんな不毛なやり取りを繰り広げていた。
コスケは、己が店の軒先で行われるやりとりを聞きながら、店のすぐ傍らの裏路地で口元に薄い笑みを浮かべていた。
尤も、この場所は裏路地とはいっても表に通づる道は隠された一つしか無く、上もコスケの店の軒で覆われているため、存在を知る者は店の主たるコスケ以外には誰も居ない。
「……まさか、イザという時の備えが役に立つ日が来るとは。何が起こるかわからないですねぇ」
所謂、隠し通路や脱出路に身を潜めたコスケは、手の内で小さな球を弄りながらボソリと呟きを漏らした。
これは以前仕入れた煙玉のような代物で。僅かな魔力を込めて床へと叩き付けると、もうもうと凄まじい量の煙が溢れ出すのだ。この道具のお陰で、コスケはこの場所へと逃げ込む事ができ、隠し通路へと通づる隠された出入口も既にこちら側から鍵をかけた為、ひとまずの安全は確保できたのだが……。
「問題は……ここからですねェ……。彼女たちがどう判断するかはわかりませんが、あまりこうしてのんびりとしている訳にはいかなさそうだ」
そう独りごちると共に、コスケは煙玉を懐へと仕舞うと、隠し通路の出口へと向けてゆっくりと足を向けた。
一刻も早く白銀の館へと向かってこの情報をテミス達へと伝え、場合によっては助けを求めなければならない。だが、手元にあるのは咄嗟に持ち出せた数個の煙玉だけで、寒さと雪から身を守る外套すら無い。
それでも尚。コスケは口元にクスリと薄い笑みを浮かべると、気配を殺して隠し通路から駆け出して行ったのだった。




