1126話 醜悪な御使い
人間などという脆弱な種族が、致命傷を瞬時に全快し得る回復能力など持つはずが無い。
だが、眼前に断つ少女の姿は紛れもなく人間そのもの。その外見と乖離した中身に畏れ抱きながらも、ヤトガミは冷静にテミスの様子を窺っていた。
強大な力を持ちながらも、尚失われぬこの慎重さこそが、彼を王たらしめた資質なのだろう。
折れ砕けた四肢も、拉げ潰れた身体も傷痕一つ無く回復するというのならば、今度は原形すら留めぬ程グチャグチャに叩き潰してしまえばいい。それでも尚、回復するというのならば五体を千々に引き裂き、すり潰して封じ込める。
ただ不死身の化け物であるだけならば、幾らでもやりようはあるのだ。
しかし、ヤトガミはビリビリ己が身を駆け巡る緊張感が、目の前の化け物がただそれだけではないと警告していた。
「貴……様――ッ!?」
「…………」
何者だ……? と。
構えを崩さぬままに、ヤトガミが問いを口走りかけた時だった。
テミスは突如ビクリとその身体を震わせると、自らの身を抱きしめるように背中を丸めた。
一見すれば絶好の隙。
だというのに、ヤトガミはまるでその場に縛り付けられてしまったかの如く、目を見開いてテミスへと視線を向けたまま、一歩たりとも動く事ができなかった。
何故なら。
首を垂れるが如き格好で晒されたその背中から、一対の純白の翼がまろび出てきていたのだ。
見れば見る程に異様な光景。
生える訳でも無く、隠されていた訳でも無い。強いて形容するのならば、テミスの体の内側から湧き出るかのように。
強烈な忌避感を覚えるヤトガミの眼前で、テミスの背に発生した翼はぞるぞるとその大きさを増した後、バサリと音を立てて空を切った。
「……皮肉のつもりか? 天上を目指す我の前に、天の御使いの姿で立ちはだかるとは」
だが、最後にヤトガミの心に残ったのは、静やかに燃える灯が如き怒りだった。
醜悪なる天使。純白の輝きを放ちながらも、天使にあるまじき悍ましい姿を見せるテミスを、ヤトガミは自らの中でそう位置付けたのだ。
揺らめく灯のようだった怒りは次第に周囲を焦がし、大火となってヤトガミの内で燃え盛る。
一体どれほど、我がその力を渇望したと思っている。
力無きが故に訪れた長き雌伏の時。このような北の果てへと追いやられ、それでも歯を食いしばり牙を研いできた。
強き者が弱き者を喰らうが世の理ならば、誰にも負けぬ力を手に入れんと。
ヒトたる身すら棄て、全てを喰らう為に。
「今更そのような虚仮脅しが通用するかァッ!! 我とてヒトの枠を超えし者! 姿を模しただけの偽物など恐るるに足らんッ!!」
ヤトガミは怒りに任せて咆哮すると、構えを攻防兼ね備えた性質を持つものから特に防御に秀でた構えへと転ずる。
怒りに燃え猛りながらも、ヤトガミの思考は冷静そのものだった。
人間の身を超えた超速再生を見せたのだ、戦う力とてこの姿へと転ずる以前より格段に強くなっている可能性が高い。
仮にその戦力が人間の姿であった時と同等であったとしても、その時は改めて叩き潰せば済む事。
そう断じて、ヤトガミは慎重に慎重を重ねてテミスの出方を窺っていたのだが。
「…………」
「ヌゥッ!?」
バギィッッ!!! と。
テミスは何の前触れもなくヤトガミへと突進すると、握り締めた拳を真正面からヤトガミへと叩き込んだ。
しかし、首尾に徹していたヤトガミがそのような単調な攻撃に後れを取るはずもなく、鋭く放たれた拳は巨木のような腕に阻まれて鈍い音を立てる。
「ッ……!! やはりッ……!! 速力は元より……力も増しておるかッ!!」
「……………」
そのまま止まること無く、二撃三撃……と。
テミスは次々と拳を打ち付けるが、ヤトガミは傷付いた右手を庇いながらもその全てを受け切っていた。
それからしばらくの間、肉を打ち、肌の擦れる音が続くと、二人の放つ熱気によって次第に周囲の空気が温まり、テミスの拳とそれを受け止めるヤトガミの腕から湯気が上がりはじめる。
しかし、テミスは熱を帯びた自らの拳から血が零れようとも打つ事を止めず、ヤトガミもまた休むことなく打ち込まれ続ける拳を捌き続けていた。
さらに数分もの間、そんな攻防が続いた後。
「……。何事か策があるやもと受け続けてみたが……我を愚弄するかァッ!!」
「……!」
怒りに満ちた咆哮を上げると共に、ヤトガミは守りを固めていた巨腕を振るうと、嵐の如く打ち込まれ続けるテミスの拳を、その身体ごと力任せに弾き飛ばしたのだった。




