1125話 異質
時は少し遡り、王の居室。
テミスとの戦いを終えたヤトガミは、戦いの後始末もそのままに、傷付いた己の身体に手当てを施していた。
尤も、手当とはいっても血を止め、患部を布で覆う応急的な処置程度なのだが。
「フン……不便なものだ。この身体も」
静寂に包まれた部屋の中に響く、引き裂いた布を包帯代わりに自分の手へと巻き付けるシュルシュルという音を聞きながら、ヤトガミは小さな声でひとりごちる。
絶対なる王たる自分が、このような手傷を負ったなどという事実は、配下たちに知られる訳にはいかない。
何故なら、彼等こそ力を得た自分達を神と崇め讃え、世界を統べる戦いの尖兵となる存在なのだ。
「フ……だが、神たる者の域へと至ればこのような傷……些末な事」
ヒトに傷を付けられる神など居ない。
故に、手傷を負ったという事実は、ヤトガミが未だその域へと至っていない何よりの証だった。
しかし、あと少し。
この山城に遺された導きに従い、新たなる力をこの身に馴染ませれば。
魔法を得意とする魔族連中の中でも、特に秀でた者達のみが使えるという治癒魔術も、異形の姿を持つ連中の持つ人外の能力も手に入るだろう。
それはこの戦いで、確かに示された。
「あぁ……これは禊であったか」
応急手当てを終えたヤトガミは、そこまで考えてからピクリと顔を上げると、視線を床に倒れたテミスへと向けて呟きを漏らした。
この奇妙な人間との戦いは、先人の課した運命という名の試練だったのだ。
なればこそ、得心もできるというもの。
事実。人間の身の癖に過ぎた力を持つこの娘と戦う事で、この身体へ確かに力が宿っていることが実感できた。
今でこそ、ただの獣人であった頃と同じく、身体強化の魔法を操るのみではあったが、保有する魔力の量も質も桁違いだった。
それは魔法の威力が物語っており、今も体内を巡る潤沢な魔力のお陰か、元々の身体能力も飛躍的に上昇していた。
「フフ……フフフッ……!!」
堪えかねたかのように、ヤトガミの歪められた唇の端から笑いが漏れる。
嬉しくない筈が無かった。試練を超えると同時に、己が得た力を振るう事ができたのだ。
飽くなき渇きに突き動かされ、ただひたすらに力を求めてきたヤトガミにとって、新たなる一歩を踏み出したという実感は何にも代えがたい甘美な感覚だった。
だからこそ。
どれ程高級な美酒を以てしても敵わない極上の快感に酔いしれていたが故に、ヤトガミは気付くのが僅かに遅れたのだ。
叩き潰されたテミスの死体が転がっているはずの窪んだ床から、ゆらりと不気味な動きで何かが立ち上がったのに。
「…………」
「ム……?」
カチャリ……。と。
割れ砕けた床材が音を立ててはじめて、ヤトガミは漸く異変を察知した。
自分以外動く者が居るはずの無いこの部屋で、望外の音が響くはずも無い。
だがその時はまだ、ヤトガミは僅かな疑問を抱いていただけだった。
不安にも似た僅かな疑問。誰もが一度は感じたことがあるであろう程度の、理由無き怖気。
しかし、その怖気に従って背後を振り返ったヤトガミの目が捉えたのは、到底信じがたい光景だった。
「なっ……にぃッ……!? ば……馬鹿なッ……!!」
そこに立っていたモノ。先程叩き潰したその姿を見紛う筈も無い。血に塗れた白銀の髪に、人間にしても華奢な手足の少女……テミスだった。
あり得ない……と。
まるで足元から急速に這い上がってくるかのような怖気に襲われながら、ヤトガミは驚愕に打ちのめされた心で呟いた。
この小娘は確かに殺したはずだ。
その証拠に、今も手足は折れ砕けており、歪に歪んだ肌が赤黒く変色しはじめているではないか。
だというのに何故……。
「何故……立てる……? 何故……歩く事ができるッ……!?」
「…………」
這い上がる怖気に支配されたヤトガミの脳裏に、化け物という一つの単語が過って消える。
しかし、再び立ち上がったテミスがヤトガミの問いに答える事は無く、その表情も彼女自身の血に染まった白銀の髪に覆われて窺う事はできない。
だが、敵であることに変わりはないッ!!! 身を縛る怖気を振り払い、ヤトガミが再び拳を構えた時だった。
「ゥ……」
テミスは折れてひしゃげた筈の喉から、僅かに声を発っせられる。
同時に、ミチミチと嫌な音を微かに響かせながら、見るも無残なほどグチャグチャに傷付いていたテミスの身体が、急速に治癒していった。
骨が折れて砕け、あらぬ方向へとひん曲がっていた四肢は元の形に。
皮膚が爆ぜて裂け、中身すらも所々に飛び出していた全身の傷は、まるで時を遡っているかの如く塞がっていく。
そして。
「ア……ァァッ……」
テミスは全身に負っていた無数の大怪我が完全に治癒すると、にちゃりと口角を捻じ曲げてヤトガミを見据える。その表情はまさしく、獲物を見定めた獣かのようで。
しかし、ヤトガミへと向けられたテミスは完全に白目を剥いており、身体を動かしてはいるものの意識が失われているのは明白だった。
そんな、テミスの姿をした異形を前に、ヤトガミは自らの背筋に一筋、冷たい汗が伝うのを感じたのだった。




