1120話 未来への足音
勝ちの目は失われた。
シズクは固い床に背を埋めながら、何処か静かに凪いだ心でひとりごちる。
まさか、最後の最後で外道に堕ちるとは。
王の部屋からここまで刃を交えてきて、クズミは不遜で鼻もちのならない相手でこそあったが、その手に仲間をかける程の外道では無かった。
だが、近衛兵である彼の覚悟と私の覚悟が雌雄を決する決着の瞬間。
決戦を止める訳でも無く、割って入る訳でも無く、クズミは己が欲の為に全てを嘲笑いながら砂をかけたのだ。
「っ……!!」
「クズミ……様……?」
「ハ……ハァ……ァァァッ……!!」
自らの背の上に跨るクズミの重さに、近衛兵は未だ信じられぬと言わんばかりに驚愕の表情を浮かべていた。
無理もない。
己が忠誠を捧げ、命すらも賭して守らんとした主が、こんな外道へと成り果てていたのだ。その衝撃と苦痛は慮るには大きすぎる。
小刀を手に恍惚とした笑みを浮かべるクズミを見上げながら、シズクは自らの上で身を固くする近衛兵を憐れんだ。
結局残ったのは、手段を択ばず、誇りを棄て、己が欲を貫き通したクズミのみ。
彼は忠義を捧げる寄る辺を失い、私はこの命を奪われる。
それでも……。
「テミスさん……あとは……任せました」
テミスさんならばきっと、ヤトガミもクズミも……そしてこの国を覆う理不尽も全て。凛々しく振るうあの大剣で斬り払ってくれるのだろう。
その礎となれたのなら。皆を護るために戦ってくれたテミスさんの露払いを勤める事ができたのなら……満足だ。
シズクは潔く静かに目を瞑ると、閉ざした瞼の裏にテミスの姿を思い浮かべながら呟いた。
けれど、もしもできたのなら。
「貴女の切り拓く未来を……一緒に見たかった」
零したのは末期の言葉。
穏やかに塗り固めた心の内から零れた無念の雫。
しかし、それを聞き届けたのは敵である近衛兵とクズミのみで。
「フフフフフッ……!! その願い、叶えましょう!! 我が血肉と成りて、共に理想郷を見ると良いッ!!」
クズミは両手で小刀を振り上げてそう叫ぶと、涎でテラテラと輝く口を大きく開け、シズクへと食らい付くべく咢と変える。
渇望した力を目前にして、クズミの頭の中は既に、自らの獲物と定めたシズクを喰らう事で満たされていた。
だからこそ、気付かなかったのだろう。
――コツリ、コツリ。と。
静かな足音を奏でながら、自分達へと近付く一人の男の姿に。
「あああっ!! 遂に……遂に真なる私へと――っ!?」
仕留めた獲物を貪る獣が如く、クズミが近衛兵の下敷きとなったシズクへと襲い掛かった刹那。
その傍らから音も無く白刃が、大きく開いたクズミの咢を迎えるかの如く放たれた。
突如として眼前に現れたその白刃を、クズミは咄嗟に体を捻って躱そうと試みるが、頭部を両断せんと放たれた斬撃を躱し切る事はできず、白刃はクズミの片頬を大きく切り裂いた。
「ぎっ……ああああああぁぁぁぁぁぁっっ!? わ、私の顔……!! 私の顔がァァッ!!?」
「……っ!?」
「…………」
無理な体勢で斬撃を躱した代償に、シズクと近衛兵の上に跨っていたクズミは揉んどりを打って前方へと転がり、床の上でじたばたともがきながら金切り声を上げる。
しかし、白刃を振るった乱入者が言葉を発する事は無く、静やかながらも燃え上がるような気迫を発しながら、シズク達の傍らに佇んでいた。
「貴さッ……まァァァァッッ!!! よくも……よくも私の顔に傷をォォッ!! 絶対ッ!! 絶対に許さないッ!!」
怒りと怨嗟の声と共に鮮血をまき散らすクズミは、唸るような音をその喉から発しながらゆらりと立ち上がる。
すると、白刃の主がその声に応ずるように一歩前へと進み出て、シズクの視界に曇り一つ無い刀の切っ先が映った。
「絶対に許さない……だと……?」
「っ……!!!!」
そして、白刃の主が口を開くと、静かながらも抑え込んだ怒りの大きさが窺えるほどに冷徹な声が放たれる。
その声はシズクにとって、聞き馴染みのある男の声で。
胸の内から言葉に出来ぬ程に入り混じった感情の奔流が溢れ出し、声を漏らす事すらできず、目尻から涙が伝う。
「それはこちらの台詞だ。我が娘をよくもここまで傷付け嬲り者にしてくれたな。猫宮家当主、猫宮虎白の誇りに懸け、我が娘の借りを返させて貰おう」
ヒャウン……。と。
コハクは名乗りと共に澄んだ音を奏でて刀を振るうと、醜悪な表情で唸り声を上げるクズミを、鋭い光を宿した目で射貫くように睨み付けたのだった。




