1112話 静寂
戦いの終わりを告げる音は、実に呆気のないものだった。
華々しい剣戟乱舞の響きでも、戦士たちが死力を振り絞った果てに放たれる英雄的な一閃の奏でる音色でもない。
ただ無様に。一片の感慨すら湧く余地の無い程に下品な。バヂン……ッ! と、肉の打ち付ける鈍い音がたてられただけで。
その後に訪れた静寂の中には、切り裂かれた己が右手の痛みに堪える、ヤトガミの荒々しい息遣いだけが響いていた。
「…………」
ヤトガミが掌を打ち付けた床の上。
そこでは、叩き潰された虫が如く。ヤトガミの怪力によって沈み込んだ僅かな隙間で、今にも耐えてしまいそうな程に、か細く浅い呼吸を繰り返していた。
しかし、止めの一撃を経て尚生き永らえているとはいえど、ただ残り滓のような命が漂っているだけ。
力無く投げ出された手足に力が戻る事は無く、虚を見つめる瞳には既に生者たる光は無く、ヤトガミの手掌によって加えられた人知を超えた圧力によって、爆ぜ裂けた己が肉体から流れ出る血をぼんやりと眺めている。
――まだだ。こんな所で斃れてなどいられるかッ!!
一方で。
傍らから見れば完全に潰えたように見えて尚、テミスの意識だけは真っ暗に落ちた視界の中で、未だに猛然と戦意を振りかざしていた。
――何故だッ!! 腕も脚もまだ動くはずだ!! 私は戦えるッ!!
固く歯を食いしばって四肢に力を籠め、猛々しくそう吠えても現実で横たわるテミスの肉体はピクリとも動く事は無く、ひしゃげた喉が音を発する事は無い。
ただ、じわじわと面積を増す赤い血の海だけが、ゆっくりと時が流れている事を物語っている。
――ふざけるな!! こんなヒトとしての知性も理性も解さない野獣を野放しになどできるかッ!! 強者が弱者を貪る世界など断じて認めんッ!! 正しさが圧倒的な暴力によって蹂躙される……そんな正義無き世界など許すものかッ!!
どれ程怒りを燃やそうとも、希望を求めて足掻き伸ばされた手は虚無を掻くばかり。
心を焦がすその熱が、執念とも呼ぶべき固き誓いが傷付き倒れた身体を癒す事も、限界を超えた身体を突き動かす事も無かった。
そもそも、そのような望外の奇跡が実を結ぶのは神の寵愛を受けし者の特権。この世界に正しき神など居ない事を知るテミスに起こり得るはずもない。
――守るんだッ!! 私がッ!! ここでコイツを討たなければシズクは……コスケはどうなるッ!? 世界を征服すると言っているんだぞ!! ファントの皆を……マーサさんやアリーシャを守らなくてはッッ!!! その為に私はッ!!!!
遂には己が意志の根底たる想いすらもかなぐり捨て、テミスは溢れる涙すら厭わずに叫び続けた。
再び立ち上がり、この暴虐の王を討つ事ができるのなら、私の魂すら捧げても構わない。
決して忘れ得ぬ思い出でも、これまで紡いできた絆でも何でもいい。
ここで負ける訳には……終わる訳にはいかないんだッ!!
……そう、友情を信じ、紡いだ縁を薪とくべて心を奮い立たせ、全てを賭して祈りを捧げても、現実が何一つ変わる事は無かった。
――どう……してッ……!!!
それでもテミスの心が折れる事は無く。まるで血を吐くように、テミスは悔しさに顔を歪ませながら呟きを漏らす。
私は負けたのだ。
刻一刻と刻まれる事実が、精も魂も尽き果てて尚諦める事の無いテミスの精神を削り、その意識を徐々に白く蝕んでゆく。
――っ………………。
どれ程抗い続けただろうか。
やがてテミスの意識の中で、叫びが、祈りが、誓いが溶けて混ざり合い、白く霞んで朧に消えていった。
もういいじゃないか。力のかぎり戦ったんだ。なにも考えなくていい。
見るに堪えぬ悪逆に怒りを燃やすことも、異なる正義との狭間で鎬を削ることもない。
意識が解れて白く染まっていくと同時に、テミスは何処か解き放たれたような清々しい思いに包まれていた。
それは羽のように柔らかで。
だというのに、高原を吹き渡る風のように冷ややかなその感覚に、心地よさすら覚えたテミスはゆっくりと意識を解き放った。
――ただ、こころのままに。
テミスの意識が完全に途切れる寸前。
パキリ……。と。
何かが割れるような音が、聞こえたような気がしたのだった。




