1111話 暴王の拳
テミスの目から見たヤトガミの構えは、酷く奇妙なものだった。
巨きな身体を前傾させ、まるで己が手自体が大きな鉤爪であるかのように手を開き、腕を広げて胸を晒している。
一見すれば腕であろうと胴であろうと斬り込めてしまう構え。
しかし、構えを取ったヤトガミから放たれる背筋を凍らせるほどに冷たい殺気に、テミスは半ば反射的に防御の構えを取った。
「良い勘をしている……だが、足りぬッ!!」
「なっ……!?」
瞬間。
雷鳴の如き怒声が頭上から響いたかと思うと、一気にテミスへと肉薄したヤトガミの巨体が視界を埋め尽くした。
このままでは叩き潰されるッ!!
そう判断したテミスが傍らへと身を投げ出した直後、金床へと振り下ろされる鎚の如く振り下ろされたヤトガミの拳が、つい先ほどまでテミスの立っていた床を割り砕く。
まさに紙一重の回避。
振り下ろされた拳の威力は、たとえ剣で受け止めていたとしても、そのまま剣ごと押し潰されていただろう。
だが、テミスの頬を伝う冷たい汗が落ちる間も無く、その眼前には次の一撃が迫っていた。
「クッ……!?」
それは、床を砕いた拳を巻き上げ、アッパーカットのような格好で振るわれた、掬い上げるような一撃で。
つい先ほど、強烈な一撃を躱したばかりで体制の崩れたテミスには、到底躱す事のできない攻撃だった。
辛うじてできた事といえば、大剣を盾のように引き寄せて身を守り、拳の直撃を避ける程度。
その結果。
ゴィィンッ……!! という鈍い音を響かせながら、テミスの身体は身を守った大剣ごと宙へと放り出された。
「がッ――ァッ……!!」
当然、その衝撃は凄まじく。
テミスは盾とした大剣を伝って響いた衝撃に全身を貫かれながら、苦悶の声と共に必死で宙へと投げ出されたその身を翻した。
何という一撃だッ……!! だが、凌ぎ切ったッ!!
衝撃冷めやらぬが故にグラグラと揺れる視界の中、テミスは何とか反撃を繰り出すべく着地に備える。
ヤトガミの攻撃は一撃がとんでもない威力を誇る上に、その巨体からは想像もつかぬ程に目にも留まらぬ迅さを併せ持っている。
だが、躱せぬ程ではない。
ならばこの瞬間。
私の剣をも止める程の力を攻撃へと回した後の隙を突くッッ!!
着地と同時に床を蹴り、ヤトガミが守りの構えを取る前に斬り付ける。
……はずだったのだが。
「カカッ!! 反応も上々!! 受けてみせよッッ!!」
打ち上げられたテミスが態勢を整え、身体がちょうど落下を始めた瞬間。
愉し気な声が響くと同時に、テミスの視界に信じられない光景が飛び込んで来る。
それは、眼前で既に固く握り締めた拳を既に振りかぶったヤトガミで。察するまでも無く、構えた剛拳を空中で為す術の無いテミスへ叩き付ける寸前だった。
「ッ――!!!!」
刹那。
無慈悲にも打ち出された巨大な拳を前に、テミスは空中で大剣へと力を籠めると、迫り来る拳を目がけて全力で振り下ろした。
回避は不可能。守った所で貫かれる。
そう直感して、咄嗟に反撃を放ったのだ。
「ッ……ァ……ゥ……!?」
しかし、その後テミスが意識を取り戻したのは、部屋の壁に穿たれた穴の中だった。
咄嗟に迎撃の斬撃を放ってからぷっつりと意識は途切れており、自らが壁に打ち付けられた記憶も、ヤトガミの拳を受けた記憶も無い。
だが、まだ生きている。
テミスは激しく痛む全身を気力で起こすと、そのまま覚束ない足取りで立ち上がった。
不思議な事に、剣を固く握り締めた両腕は無事だし、足も捥げる事無くついている。
満身創痍であることに変わりは無いが、あの強大な威力の拳を受けたことを考えれば、この程度のダメージで済んだのは僥倖だろう。
「オッ……オオォォォォォッッッ!!!」
「…………」
フラフラと穴から這い出たテミスの視界にまず飛び込んできたのは、自らの右手を押さえて悶え苦しむヤトガミの姿だった。
どうやら、意識を失っていたのはほんの数秒らしく、苦悶の叫びを上げるヤトガミの足元には、ボタボタと落ちる大量の血が小さな池を作っている。
「フーッ!! フゥーッッ!! よ……よもやッ……!! よもやあそこで……あの輝く剣を使うとはッ……!!」
「…………。ゴホッ……!」
ヤトガミは痛みに血走らせた目でテミスを捉えると、荒々しい息を吐きながら語り掛けた。
しかし、テミスが言葉を返そうと口を開くも、吐き出されたのはごぼりという嫌な音と一塊の血の球だけで。
テミスは胸元を染めた自らの血に視線を落とすと、僅かな間を置いてからグラリとその体勢を大きく傾がせる。
「この八刀神命の拳を切り裂いたのだ。誇りながら死に逝け」
その言葉とは裏腹に、ヤトガミはまるで羽虫でも払うかのようなぞんざいな動きで、ゆっくりと床に向かって崩れ落ちるテミスへ向けて、自らの血に濡れた左掌を叩き付けたのだった。




