1087話 密かなる邂逅
沈黙が、月明りに照らされた部屋の中を支配する。
スラリとしなやかに伸びた肢体に、暗闇に浮かぶ人影を一目見ただけで分かるほどに鍛え抜かれた筋肉は、侵入者が獣人族である事を声高に物語っている。
一方で、部屋の中へと入ってきた男は、よもやテミス達がまるで出迎えるかのように椅子に座っているなどとは思っても居なかったのだろう。
部屋の入り口でその足を止め、僅かにたじろいだ男の後ろで、唯一動いていた扉が、パタリと軽い音を立ててその口を閉ざす。
「っ……!! これは驚いた。まさか、このような形で出迎えられるとは」
「どなたかは存じませんが、訪ねる部屋をお間違えではありませんか? こちらは私たち従者へとあてがわれた部屋……コスケ様は隣のお部屋です」
「フ……いいや、間違ってなどいないさ」
口火を切った男にシズクが冷たい声で言葉を返すと、男はその口元にクスリと笑みを浮かべた後、ゆっくりとした足取りで部屋の中へと踏み入ってくる。
本来ならばこのような、敵地の只中で突如現れた素性のわからない者を近付けるなど自殺行為に等しい。
しかし、あくまでも今のテミスとシズクはコスケに側仕える従者なのだ。
ただの侍女が間合いなど気にする訳もなく、その役を被り続けなければならないテミスとシズクは、やむなく男が近づく事を黙殺する。
だが……。
「……そう警戒しないで欲しいな。えぇと……私もそちらに腰掛けて構わないかな?」
「っ……」
「どうぞ」
残り数歩の距離まで近付いた男は苦笑いを浮かべて足を止めると、改めてテミス達二人を見て問いかけた。
無論。そう問われれば拒否する事などできる訳も無く。
シズクがコクリと小さく頷くのを待ってから、テミスは静かに立ち上がり、新たに男の分の椅子を机の前へと設えた。
「ありがとう。フフッ……君に椅子を用意させたのはきっと、私が初めてじゃないかな?」
「……? それはどういう……」
「だってそうだろう? 元・魔王軍第十三独立軍団長にして、融和都市ファントの守護者……テミス殿?」
「なっ……!?」
「えっ……!?」
ギシリと椅子を軋ませて腰掛けながら、男が柔らかな口調でそう告げると、テミスとシズクはあまりの驚愕に揃って息を呑んだ。
馬鹿なッ……!? この男とは初対面の筈だ。だというのに一体なぜ……こうも容易く正体が露見した?
「ハハハッ……そう驚く事は無いさ。私はただ世間に……この世の中の情勢に気を配って目を向けているだけさ。父上や母上と違ってね」
しかし、男はそんなテミス達の驚愕を面白がるかのように、口元に拳を当てて身体を丸め、上品にクスクスと笑ってみせる。
その所作からは、不思議と不快感や敵意といったものは感じ取れず、警戒の色を薄めたテミスが注意深く口を開いた。
「父上や……母上だと……?」
「そう。先日会っただろう? ……と言ってもあの二人の事だ、顔なんて見えなかったと思うけれど」
「……!!?」
「まさかっ……!?」
「はじめまして。私はギルファー第一王子、名をヤタロウと言う。どうか、親しみを込めてそのままヤタロウと呼んで欲しい」
絶句する二人の前で、ヤタロウと名乗った男は静かに頭を下げた後、にっこりと微笑みを浮かべて、テミス達の顔へ交互に視線を送る。
だが、予想だにしない人物の訪問に衝撃が抜けきらない二人は、言葉を返す事すら出来ずにただ凍り付いていた。
「あははっ……。やっぱり、新鮮だなぁ……そういう反応。驚かせてごめんね? 一回やってみたかったんだ、こういうの。王城じゃあ皆私の顔は知っているから、驚かせようが無くってね」
「お……お……驚かない訳が無い……だろう……」
「ぁぁ……ぇぁ……ぅぁ……?」
「おい。気持ちは理解できるが呆けている場合じゃない。戻って来い」
そう言って楽し気に笑うヤタロウを前に、辛うじて正気を取り戻したテミスは詰まりながらも言葉を返すが、シズクはあまりの衝撃を受け止め切れなかったのか、中途半端な笑みを浮かべたまま、うわ言のように言葉にならない呟きを漏らし続けていた。
そんなシズクの頬を、テミスは傍らから身を乗り出してペシペシと軽く叩くと、数度叩いた辺りでようやく気が付いたのか、焦点の合っていなかった目が現実を捉える。
「ハッ……!! も、申し訳ありません!! 殿下ッッ!! テミスさんも、お手間をおかけしました」
そして、正気に戻った瞬間。
シズクはテミスとヤタロウに向けて凄まじい勢いで頭を下げると、まくし立てるように謝罪の言葉を口にした。
「ん~……なら、殿下はやめて欲しいかな。気軽に、ヤタロウ……でっ!」
「っ~~~~!!! お戯れをッ……!! せ、せめてヤタロウ様とお呼びさせて頂きたくッッ!!」
「あ~……まぁ、仕方ないか……。シズクちゃんはそれで良いとして、君は勿論ヤタロウって呼んでくれるよね?」
だがヤタロウは、相も変わらずこの国の王子だとは思えない程にフランクな態度で。
恐縮し切っているシズクに柔らかな微笑みを向けた後、その矛先をテミスへと向けてきた。
無論。テミスにとってヤタロウは他国の王子。こう不意打ちさえされなければ、シズクのように必要以上に畏まる気は無い。
「…………。そう呼べと言うのなら。ならば問わせてくれ。ヤタロウ、私達の正体を知っているのならば、何故訪ねてきたんだ?」
「いや~、この城の中を探索するのに、大層お困りかと思ってね? 助けに来たのさ」
神妙な顔でヤタロウの要望を受け入れたテミスは、早速希望通りにその名を呼んで問いかけた。
すると、ヤタロウは満足気な笑みを浮かべた後、何処か得意気な口調でそう答えたのだった。




