1075話 盲目たる暗愚
カチリ。と。
一人の兵士が叫ぶように抗議をした瞬間、コスケの耳が背後から微かに響いた不穏な音を捉える。
聞き間違えるはずも無い。その音は間違いなく、コスケの身体を死角に使ったテミスが、鯉口を切った音だった。
「っ……!!」
背筋に直接吹き付けるかのように感じる冷たい感覚に、コスケはドクドクと早鐘を打ち始める心臓を律しながら、必死で考えを巡らせた。
確かに、万に一つの可能性を鑑みて、戦闘が回避できないと判断した場合は、彼女が即座に先手を取る手はずになっている。
だが、現状はまだ五分と五分だ。
この隊長サンが判断を間違えず、兵の進言を却下してくれれば、無駄な戦いを避ける事ができるッ!!
「我々は誇り高きギルファーの民ッ!! その頂点たる尊き王城に、何故このような不埒者を招かねばならぬのですかッ!! 危険過ぎる!!」
「止せ。お前の気持ちは理解できる。だが、我等が王が求めておられるのだ。なれば、王命の前では我等の意志など些末な事」
「王が求めておられるのはッ!! その男だけでしょうッ!!! 猫人族の女は兎も角、人間を入れるなど言語道断ッ!!! 自明の理ではありませぬかッ!!」
「ッ……ムゥ……」
しかし、そんなコスケの願いも虚しく、兵は血気盛んに己が理論を喚き立てると、勢いのままに判断を圧し切らんとしていた。
同時に、コスケの背後から押し寄せる重圧はその威力を増しており、その研ぎ澄まされた殺気が、最早一刻の猶予すらも無い事を声高に告げていた。
「待って下さい!! それはあまりにも横暴だ」
「黙れ!! 痴れ者が!! 人間などと慣れ合う見下げ果てた裏切り者が口を挟むなッ!!」
「そうですか。では……アナタ方は一方的にアタシと敵対する……そう取って良いんですね?」
「っ……!!! ま、待て!! 我等の総意ではない! ……少しは黙らんか! 任務を考えろ馬鹿者ッ!!」
「ですがッ……!!!」
コスケは背後に背負ってしまった鬼が動き出してしまう前に、策を弄する暇もなく必死で近衛たちの会話に飛び込んでいった。
最早やけくそだ。どうせこの交渉が失敗したら戦いになる。ならばいっそ、彼等の忠義をへし折る程、強気に出て行くしかない!!
内心の動揺を薄い笑みの下に隠し、コスケは覚悟を決めて言葉を続ける。
「いいえ。待てません。確かに、アナタ達に課せられた仕事はアタシを王城へと連れていく事だけだ」
「だったら――」
「――ですがアタシは求められた仕事を十全に果たすべく、こうして必要なものをかき集めて準備をしました。それを、下らない意地や誇りの為に、自身の仕事だけ達成できればいいと邪魔をするならばこちらにも考えがあります」
「グッ……」
低く響かせた声にたじろぐ部隊長を、コスケは鋭い眼光で睨み付けながらつらつらと言葉を並べ立てた。
その迫力は、途中で口を挟もうとした兵士すら黙らせるほどで。
そんな彼等の反応から、辛うじて優位に立った事を察したコスケは畳みかけるべく重ねて口を開く。
「そもそも、考えずとも解る事の筈だ。王が求めているのはアタシの身柄ですか? 答えは否。アナタたちはその明白たる事実を、自分達の都合の良い様に捻じ曲げているに過ぎない」
「――ッ!!!」
「ほざくなッ!! 人間なんかが必要になどなるものか! そんなもの、断じてあり得ない!!」
「……わからないヒトだな。だからこそ……秘中の秘なんですよ。それに、判断をするのはアナタ達の役目ではない」
「ッ……理由を!! ならばせめて、理由を聞かせていただきたいッ!!」
「理由……ですか……?」
だが、再び兵士が抗弁の声をあげた為、コスケは深い溜息を一つ吐くと、戦闘を覚悟してゆっくりと態勢を整えた。
しかしその瞬間。
部隊長がピリピリとささくれ立った二人の間に大声を張り上げて割り込むと、興奮する兵を突き飛ばして真っ直ぐにコスケと向き合った。
その瞳は、今にも泣き出してしまいそうな程に潤んでおり、コスケはそこにようやく活路を見出す事ができた。
「単純な話です。アタシがいくら言葉を弄そうと、彼女無しでは何の意味も無い。いわば核のようなものだ。それだけでも、十分な関係者ではありませんか? そんな彼女を持ち込むなと言うのなら、どうせアタシもアナタ達も全員処刑だ。今度こそ、全力で逃げさせて貰います」
「詭弁を――ごぁッ!?」
「部下が大変失礼をしたッ!! 我等は王に仕える身。王命とあらば如何なるものであろうとも用意すべきである」
「……お判りいただけたようで。何よりです」
「では、参りましょう」
暗闇に穿たれたかのような一縷の希望に賭け、コスケは思い付いた傍から理由を語り、無理やりこの場で理論をでっちあげる。
これは、一種の取引だった。
部隊長は本質を見誤りそうになった自身の失態を帳消しにし、コスケは彼等の誇りに唾を吐き、踏み躙る事を許される。
そんな暗黙の取引は、皮肉にも部隊長の拳がこの場で誰よりも正しい意見を延べていた兵の顔面に叩き込まれる事で成立したのだった。




