1074話 せめぎ合う忠道
最悪の一日だ。
王族近衛隊の分隊長であるケイマは、酷く陰鬱な気分で目の前にそびえ立つ店を見上げて溜息を吐いた。
「まさか……逃げ出すとは……」
王城へ召し上げられるのは名誉な事であり、至上の喜びだ。
かつて、自身が近衛隊へと抜擢された時に抱いたこの身を震わせるほどの感動は、今なお鮮明に覚えている。
だからこそ……。
「クソッ……忌々しいッ!! 価値も道理も解さぬ下賤の民がッ!!」
ケイマは傍らに部下が居るにも構わず、ガシガシと石畳を蹴り付けて地団太を踏むと、胸の中の苛立ちを露にした。
確か、万事屋だとか言ったか。
店構えこそ立派なものだが、これだからやはり商人などという者は如何に外面を飾ろうと信用できない。
いっその事、この店を叩き潰してしまおうか……と。ふつふつと煮え滾る悋気が、ケイマの胸中に宿る獣を目覚めさせかけていた。
昨晩にコスケを取り逃がしてから、夜を通してこの場で待ち続けた苛立ちはとうに限界を超え、今にも溢れ出そうになっているのだ。
その時。
「ぶ……部隊長殿ッ!!」
「何だ!! いちいち喚くな!!」
「も、申し訳ありませんッ!! ですが……アレを……ッ!!」
「っ――!?」
側付きの役を与えていた兵が声をあげ、指し示す方向へと視線を向けると、そこには驚愕すべき人物がこちらへ向かって歩いてきていた。
あぁ……そんな馬鹿な。私は夢でも見ているのだろうか?
だが、ケイマが内心でそう呟いている間にも、先程この場所から逃亡せしめた下手人、万事屋の店主を勤めるコスケは、はたはたと外套をはためかせながらケイマの正面まで歩み寄ると、ピタリと立ち止まって飄々と口を開く。
「……お待たせしましたぁ。スイマセンね。時間ギリギリになってしまって」
「なっ……!!!」
「貴様ッ……!! 馬鹿にしているのかッ!?」
しかし、告げられた言葉とは裏腹に、その口調は欠片とも悪びれてなど居らず、絶句するケイマを置いて、先に部下が怒りの声をあげていた。
「とんでもない。馬鹿になどしていませんよ。アタシは確かに言ったハズです。準備が必要だ……と」
「ふざけるな!! 我等の眼前から遁走しておいて、どの口がほざくッ!!」
「遁走……? いいえ? アタシはただ、大急ぎで準備すべく奔走しただけです」
「何にせよ、同じ事だ!! 王の命に反して逃亡を企てた罪は重いッ!! その命を以て贖うべき大罪であるッ!!」
「っ……!!」
ズラリ。と。
ケイマが口を開くのを待たず、部下達は怒りの咆哮と共に次々と刀を抜き放ち、その切先をコスケへと向ける。
その瞬間。コスケの傍らに控えていた小柄な少女が一人、彼を庇うように白刃の前へと身を躍らせた。
だが、コスケは少女の肩に優しく手を置くと、己が身を護る為に白刃の前へとその身を晒したその身を制して一歩前へと歩み出る。
「アナタが隊長サン……ですよね? アナタも彼等と同じ意見ですか?」
そして、射貫くような鋭い視線と共に放たれた言葉は、物腰こそ柔らかかったものの、背筋に怖気を感じさせるほどの凄味を帯びており、眼前で抜刀した兵達が堪え切れずにたじろいで一歩後ずさった。
成る程……一介の店主であるという評価は改めなければなるまい。
抜刀した兵達の頭を飛び越え、直接自分へと問いかけたコスケの豪胆さを、ケイマは内心でそう評価した。
「……いいや。逃走ではなく、準備の為の奔走であったならば、罪には当たらん」
「っ……!! 部隊長ッ!!」
「黙れ。こうしてこの場へと戻って来た事が何よりの証左だ。刀を引け」
「グッ……。はいッ……!!」
ピリピリと肌を焦がす気迫に小さな笑みを零しながらケイマがそう返すと、怒りの静まらぬ部下が抗議の声をあげる。
だが、ケイマはギラリと抗議した兵を睨み付けて黙らせると、密かに心の内で溜息を零した。
役を持たぬ兵はこれだから始末が悪い。我々の任務は、この死者すら蘇らせる秘法を持つコスケという男を王城へと連れていく事だ。
その過程はどうあれ、その身は既に王の物。我々が独断で裁いて良いものではない。
故に。
「……幾つか確認だ」
「どうぞ?」
「お前の言う準備とやらは、その小娘たちの事か?」
「勿論です。用意しなければならなかったのは、彼女達だけではありませんが」
「正気か?」
「至って」
「っ……!!!」
ケイマはコスケの侍らせている二人の少女へと水を向けたのだが、返って来たのは想像通りの食えない答えだった。
だとしたら、この男とんでもない狼藉者だ。奴を庇った獣人の娘ならば兎も角、もう一人は奴隷とはいえ人間ではないか。しかも、あろう事かきちんとした服まで与えている。
我が忠義に懸けて、このような不埒者に王城へと足を踏み入れさせるべきではない。だが、それでは王から賜わった任務が果たせない。
相反する想いが胸中で渦巻き、ケイマは歯を食いしばってその二つの感情の間で苦悩する。
王は彼等を求めている。だがッ……!!
荒れ狂う忠義を必死で律し、ケイマが口を開こうとした時だった。
「部隊長ッ!!! 私は……承服ッ……できませんッッ!!!」
微かに漂う朝靄を切り裂くようにして、一人の兵が目を剥いて叫びを上げたのだった。




