1054話 無慈悲な悪戯の咢
昇り始めた日が僅かにその輝きを増し、朝露の香りが消え失せた頃。
テミスが起居する拠点のホールには、賑やかな声が響いていた。
「シズク。次! 一人前あがったぞ!」
「ハ……ハイッ!!! 今……行きますッ!!」
「カガリ。下げた皿は水桶の中だ!! 忙しくても置きっぱなしにするな!!」
「くぅッ……」
「返事はッ!?」
「了……解ッ!!」
厨房から姿を現したテミスは、暖かな湯気をあげるトレイをカウンターの上へと置くと、代わりに傍らに放置されていた空き皿のトレイを取り上げて怒鳴り声を上げる。
その視線の先では、膝丈にも満たない程の短いスカートと、各所にフリルをふんだんにあしらった、色違いのメイド服を身に着けたシズクとカガリが、茹で上がった蛸のように顔を紅潮させて給仕に勤しんでいた。
とはいっても、仕事の量としては別段忙しい訳でも無く。この拠点に出入りする数名の朝食を振舞っているだけなのだが。
「どうした? もっとキビキビ動けるはずだろう?」
「それはッ……!! そう……です……が……」
新たに出来上がった食事を取りに来たシズクに、テミスは意地の悪い笑みを浮かべながらそう訊ねると、シズクは歯を食いしばりながら悔し気にその言葉を肯定した。
それもそのはず。今のシズク達は、その短すぎるスカートの中身を秘する為に、必要以上に一挙手一投足に気を払っている。
しかし、そんな事を気にしていれば通常通りの動きができるはずも無く、今の二人の仕事ぶりは、お世辞にも良いとは言えなかった。
だが、配膳を待っているのも見ず知らずの他人などではなく、彼女たちの仲間達であるが故に、恥辱と仕事の合間で狼狽える二人を楽しげに眺めていた。
「……。ハァ、やれやれ。あのザマではとても無理そうだな」
空になった器を手にテミスは厨房へと引っ込むと、溜息を洩らしながらトレイを傾け、流し込むようにして水桶の中に器を流し入れた。
そう。テミスに虚を突かれて罰を受ける羽目になった二人には、密かに課せられた重大な任務があった。
それは、自分達がテミスにしてやられたように、仲間の隙を突いて『暗殺』を決行する事。
その為に二人には、わざわざテミスが選んだ至る所に武器が仕込まれた潜入・変装用の衣装を貸し与えているというのに……。
無論。こんな遊びで無駄な怪我人など出す訳にもいかない為、寸止めの必要はあるが、あんなにも気を乱していてはどうやっても仕留める事はできないだろう。
「フム……いい案だと思ったのだがなぁ……」
いわばこれは増やし鬼。
奇襲を仕掛けるという性質上、あまり多くの者に仕掛ける事はできないが、山場を一つ越えて緩んだ気を引き締め直す、拠点から外に出る事のできないテミスの暇潰しを兼ねたレクリエーションなのだ。
「クス……少々狡いが、こうなっては仕方が無い。私も参加するとしよう」
新たに取り出した器の上に、テミスは手早く料理を盛りつけると、トレイに乗せてゆっくりと歩き始める。
しかし、両手でしっかりとトレイを持つシズクとカガリとは異なり、テミスは片手で掌の上にトレイを乗せて運んでいた。
その傍らで、何気なく腰のあたりへと下げられたもう片方の手が、音もなく袖の中へと消えていった。
そして。
「待たせたな。今日の朝食は白飯に味噌汁、氷砕銀鮭の塩焼きに大根菜のお浸しだ」
「わぁっ……!! って……テミス様ッ!? 朝食を作って頂けるだけでなく、私などのような者に配膳なんてっ……!!」
「クス……気にするな。あの二人の働きぶりではせっかく作った食事も冷めてしまうからな。今はもう待たせている者も居ないし問題ないさ」
「あ……ありがとうございますッ!! でもあの二人も、可愛くて面白いですよ?」
足音と気配を殺したテミスは一人の兵士に歩み寄ると、慣れた手つきで兵士の前に料理を並べ、涼やかな笑みを浮かべて言葉を交わす。
確かこの兵は、普段は良くアヤと一緒に居たはずだ。ならば、ここで彼女を仕留めてしまえば、シズクやカガリが動けなくとも『暗殺』の輪は広がっていくはずだ。
「クク……では、ごゆっくり」
「はいッ!! いただきま――え……?」
そんな事を考えながらもテミスは完璧な所作で配膳を終えると、静かに一礼をして空になったトレイを手にする。
一方でその陰では、袖口から一振りの小さなナイフを取り出したテミスの手が、獲物を狙う蛇のように兵の首筋へと閃いていた。
直後。テミスに配膳を受けた兵は眼前に並べられた料理に目を輝かせながら声を弾ませたが、その歓声は首筋にピタリと添えられた冷たい感触によって断ち切られた。
「テ……テミ……スさま? これは……」
「シーッ……声をあげない動揺しない。これは訓練だ。だが、少々気を抜き過ぎたな。私が刺客ならば、お前は今私に刺されて死んでいた」
「そんなッ……!! ……ッ!? まさかッ……!?」
突如として自らの身に降りかかった災難に、つい先ほどまで目を輝かせていた兵は顔を青くして鋭く息を呑む。
しかし同時に、兵はピクリと肩を跳ねさせると、何かを察したかのように目を見開いて掠れ声でテミスへと問いかけた。
「フ……勘が良いな。罰ゲームだ。お前にも衣装と装備を支給する。別任務が無ければ今夜から手伝うように」
「あうぅ……承知……しましたぁ……」
「では……今度こそ、ごゆっくり」
兵の首筋からナイフを離しながら、テミスは小さな笑みを浮かべて兵の問いに答えを返した。
その無慈悲な通達に、兵が諦めたかのようにガックリと肩を落として答えたのを確認すると、テミスは不敵な笑みと共にそう言い残して、厨房へと踵を返したのだった。




