1048話 一人の武人として
――全て、見ていた。
シズクは力強い足取りで一歩、また一歩と歩を刻みながら、胸の中でひとりごちる。
テミスさんが助けに来てくれたことも、そしてお爺様との熾烈な戦いも。
だからこそこれは、私がやらなくてはならない事なのだ。
「……狐助さん。ここを、開けてください」
「っ……!! 待って下さい、シズクお嬢。テミスさんの言う通りです。今は休んで――」
「――お願いします」
「ゥッ……!?」
コスケの張った結界の端まで歩を進めると、シズクは静かな声で淡々と言葉を紡いだ。
一方で、その願いを聞いたコスケはピクリと眉を跳ねさせると、困り果てたように傍らで座り込んだままのテミスへと視線を向ける。
「何をするつもりだ?」
「此度の一件にけじめを」
「無駄な事だ」
「いいえ」
「無駄だよ。これ以上は何もない。お前は無事で、お前を切り刻んだあの爺がもう正気を取り戻す事は無い。全ては終わったんだ。それで良いじゃないか」
「…………」
コスケに助けを求められたテミスがシズクとの問答を引き継ぎ、言葉を並べて説得を試みるが、ゆっくりとテミスを振り返ったシズクの瞳には、何かを決心したかのような毅然とした輝きが宿っていた。
「ハァ……なら、言い方を変えよう」
それを見たテミスは、心底呆れたかのように深い溜息をつくと、緩慢な動きで立ち上がって言葉を続ける。
シズクの実直な性格を考えれば、彼女の言うけじめとやらが何を指し示すかなど簡単に予測はできる。だが、狂気に呑まれたとはいえ仮にもあの爺とシズクは血縁関係。如何なる理由があろうと、実の祖父をその手にかけて心に傷を負わない理由が無い。
「止めておけ。けじめなどつけなくて良い。気負う必要も無い。そんな事をした所で、お前が苦しむ事になるだけだ」
「…………」
「安心しろ。私の掛けた呪いが解ける事は無い。終わったんだ。そうだな……後は拠点に帰って皆で宴会でも開こう。その……勿論、お前が望めば、だが……」
「テミスさん……」
「あぁ……そうだ。お前にもしっかりと謝らなければならないな。あれ程良く働いてくれていたのに、技の鍛練もそこそこに放り出してしまった」
その身に蓄積した、疲労の所為もあるのだろう。
口調こそいつもと変わる事は無いものの、何処か懸命な様子で語るテミスには普段纏っている凛とした気配が無かった。
そんなテミスが必死でシズクへと言葉を重ねる姿は、まるでその外見相応なただの少女であるかのようで。
シズクにはそれが何故か可笑しくて……。同時に、心が沸き立つほどに嬉しかった。
「ふふ……やっぱり、テミスさんは優しいですね」
「なっ……!? 私はッ……」
「でも、ごめんなさい。これだけはどうしても、譲れないんです」
「シズク……」
だからこそ。
シズクは柔らかな笑顔を浮かべてテミスの優しさを拒絶した。
ここでこの優しさに甘えてしまえば、私は一生テミスさんに守られるだけの存在になってしまう。
今この瞬間、確かにこうして守られたように。テミスさんが敵であるはずのお爺様をただ斬り捨てず、生かしたまま狂わせたのはきっと、私の為でもあるのだろう。
嬲り苦しめられた私の無念と、私の記憶に眠る強く気高いお爺様の記憶。
故に。道を違えたお爺様を罰しながらも、テミスさんはお爺様の命までも奪う事はしなかったのだ。
「私は……テミスさんの補佐ですから。いつか貴女の背中に追い付いてみせる。いつか貴女の隣に立って見せる。ギルファーとファントがいつか、共に手を取り合うように」
「っ……!!」
目を瞑って大きく一つ、深呼吸をした後。シズクは静かにその瞳を開くと、真っ直ぐにテミスを見つめて、胸に秘めた昂る思いを口にした。
背筋をまっすぐに伸ばして胸を張り、誇りと気高さに満ちたその瞳は、まるでテミスの持つ紅の瞳のように赤く光り輝いていて。
普段ならば憎まれ口の一つでも叩いてやるのだが、この時ばかりはテミスも、見惚れたようにシズクを見つめ続けていた。
そして。
「……滴サン。それがアナタの選んだ道であるなら。アタシは応援します」
「ありがとうございます」
バシュゥッ! と。
コスケが言葉と共に柔らかな笑みを浮かべて手元の魔道具へと手を翳すと、巨大なテントのように周囲に張り巡らされていた結界がゆっくりと薄らいでいく。
「お……おいっ……!?」
「シッ……滴サンならきっと大丈夫です。なら、アタシ達は今はただ、静かに見守りましょう」
「ッ……!!! 私は知らんぞ……どうなっても……」
「フフ……。やはりアナタはアタシの見込んだ通りのお人のようですね」
強固に張り巡らされていた結界が薄れ、虚空へと消え去る間の僅かな時間。
コスケは、眉間に深々と皺を寄せ、そこか拗ねたように足元へと視線を落として呟くテミスの傍らに立つと、胸を張って進み出ていくシズクの背を眺めながら、柔らかな笑みを浮かべてそう呟いたのだった。




