1046話 今、全てを賭して
「ッ……驚いた。テミスさん……アナタは……」
「ハァッ……ッ……ハァ……ッ……!!」
テミスがその両の掌に渾身の力を籠め、シズクへと力を注ぎ込み始めて十数分。
淡い緑色の光が明滅する隠された空間の中に、震えるコスケの声が響いた。
既にシズクの身体に刻まれた痛ましい傷のほとんどが治癒しており、残すは削ぎ落とされた耳と、大量に失った血液の補充を残すのみだ。
シズク自身も、その身を襲う苦痛が和らいだ為か、今は静かにその目を閉じて穏やかな表情を浮かべている。
「グッ……!?」
「テミスさんッ!?」
「大丈夫だ」
だが突如として。
荒い呼吸を繰り返していたテミスは苦悶の声を漏らすと、グラリとその状態を大きく傾がせた。
しかし、目を見開いたコスケが声をあげた直後。すぐに持ち直して元の体勢へと戻る。
「フゥッ……フゥッ……!!」
頭が痛い。視界が歪む。吐き気がする。
シズクの治療の完遂を間近に控えて、テミスは己が身を襲う変調に歯噛みしていた。
まるで、重度の風邪と船酔いを合わせたかのような不快感。加えて喉は灼け付くように乾いているし、身体は熱を帯びている。
「流石に……無茶が……過ぎた……か……?」
それでも尚、テミスは発動した能力を解く事も、魔力を注ぎ込む手を止める事も無かった。
今、シズクには三つの行程を同時に施している。
一つは、かつて見た再生の呪符の効力を再現した術式。これは魔力を糧に肉体を強制的に修復する禁忌の秘術だ。
そして次に、魔力に乏しいシズクでは到底支払えない肉体修復の代償を、テミスが外部から魔力を注ぎ込む事で補っているのだ。
しかし、それだけでは足りなかった。
考えてみれば、胸に一矢を受けただけのフリーディアでさえ、完治するのに一晩の時を要したのだ。
全身に深手を負ったシズクでは、その傷の修復に途方も無い時間が必要となるのは自明の理。
故に。
テミスは再生の呪符の術式を再現し、かつ代償たる魔力を注ぎ込みながら、シズクの身体に時間加速の魔法を施していた。
無論。これらを維持する為に消費する魔力の量は絶大で。そもそも、この行程の一つ一つですら、魔力に長けた魔族の中でも特に優秀な者が習得できるか否かという代物なのだ。
常人離れした魔力を持つテミスであっても、既にその魔力は底をつきかけていた。
「ッ……ぐぷッ……ッ~~~!!!」
魔力が尽きかけた状態で尚、振り絞ろうとすれば、当然その反動はテミス自身へと返ってくる。
テミスは胸の奥から焦げ付くような異物感がせり上がってきた瞬間、咄嗟に喉に力を込めると、ぶちまけそうになった胃の中身をすんでの所で堪え切った。
「あとは……耳……ッッ!!」
不調の波を堪え切ったテミスは、己を鼓舞するように必死で呟きを漏らすと、最後の関門である削ぎ落とされた耳へと視線を向ける。
ここまでは、例え原形が留めていない程にぐちゃぐちゃに刺し刻まれていても、肉体の一部が欠損している訳では無かった。
だが幸いにも、ジュンペイが拾ってきていたのか、傍らには切断されたシズクの耳が置かれていて。
それを見たテミスは小さく口角を吊り上げると、光を放つ手で切り離された耳を拾い上げ、元の位置へと添えて更に力を注ぎ込んだ。
「ぁ……?」
刹那。
テミスを襲ったのはまるで己の存在事態を絞り出したかのような虚脱感で。
しかし、テミスは一瞬だけその異様な感覚に戸惑ったものの、手を緩めることなく治療を続けた。
だが、テミスにもう少しこの世界における魔術の知識があれば気付く事ができたのだろう。
その虚脱感こそ、完全に魔力が尽きた時に起こる魔力欠乏の証であり、それを越えて魔力を行使すれば、今度は魔力では無く己が生命力そのもの……魂を燃やす事になるのだと。
そして、魂を用いた治療術式は最早治療などでは無く、己が命を分け与えるに等しい行為なのだと。
「が……ぁッ……ぁ……ッ!!!」
けれど、自らの身に起こっている事など理解していないテミスが治療の手を止める事は無く。程なくしてテミスが崩れ落ちるように翳した手を下ろすと、その前には傷一つ無い姿でシズクが横たわっていた。
「ガハッ……ゲホッ……ゴホッ……!!! ゼェ……ッ……ヒューッ……」
「……終わった……のですか……?」
「あ……あぁ……辛うじて……だがな……」
その消耗しきった背中にコスケが震える声で問いかけると、テミスは息も絶え絶えといった様子で言葉を返す。
しかし、汗にまみれたその顔は何処か清々さを湛えた不敵な笑みが浮かべられており、それはシズクの命が無事に繋ぎ止められたことを意味していた。
そして……。
「ぅ……ん……」
治療が完了してから僅かな時間しか過ぎていないにも関わらず。
微かなうめき声と共に、テミスの傍らで横たわるシズクの瞼がピクピクと動いたのだった。




