92話 欲望の魔手
テミスが贅沢な悩みに頭を悩ませている頃。王都ロンヴァルディアに一つの怒声が響いていた。
「話が違うぞ! ヒョードル殿ッ! 拘置とはどういうことか説明していただこうかッ!」
騒ぎの中心は王城の傍ら。その部屋は、人間軍の司令部が置かれている部屋だった。
「話が違うも何も言葉通りだ。規律を乱した者には罰が下る。お前達への処分も追って通達されるだろう」
「処分!? 処分だと? それがあの戦いに力を貸した我等白翼騎士団に対する態度なのかっ!?」
「黙れ。そもそも、あの戦いへの参戦を志願したのは貴様等だ。勇猛だと聞いていたから許したのだがな……よもや勝手に軍を退かせるなど……噂程当てにならんものは無いな」
ヒョードルは嫌らしく顔を歪めると、白い隊服に身を包んだ騎士達にため息を零してみせる。
「何ィ……? カルヴァス副隊長! これは白翼騎士団への侮辱です! 断固抗議しましょうっ!」
「好きにしたまえ……ただ、その行為は逆賊の身である貴様等の首を絞めるだけだがな……それでもいいと言うのであれば私は止めんよ。カルヴァス・フォン・キルギス君?」
「っ……!!」
ヒョードルは後ろから進み出た騎士、ミュルクを一瞥すると、ニンマリとした顔でカルヴァスへと視線を戻す。その視線を受け止めるカルヴァスの手は、白く血の気が引く程握り締められていた。
「…………承知した。では我等も好きにさせてもらうとします。行くぞ」
「っ!? 副隊長ッ!」
長い沈黙の後、カルヴァスはギシギシと歯が軋むほど歯を食いしばりながら告げると、ヒョードルを鋭く睨みつけた後、身を翻して歩き出した。そしてその後ろを慌てたように随伴する騎士が後を追う。
「……良いのですか?」
「ああ。今回の戦い、フリーディア様に責は無い。正義を通すのが我等の役目だ」
背を追ってきた一人の騎士が問いかけると、カルヴァスは静かに頷いて答える。
無論。カルヴァスとてヒョードルの言葉に含まれていた意味を理解していない訳では無い。あのあからさまにファミリーネームに重きを置いた発音は、動けばお前の実家も無事では済まさんという意味だろう。
「その程度で……我等が翼を手折れると思うなッ……」
「っ…………」
ギリギリと歯を食いしばりながら表情を歪めるカルヴァスを見ながら、ミュルクは一人ロンヴァルディアへ帰還した日の事を思い出していた。
「動くな」
事の始まりは、町の入り口で待ち構えていた憲兵たちだった。彼等は帰還した我々にその槍の矛先を向けると、瞳に無機質な光を湛えて言い放ったのだ。
「白翼騎士団騎士団長。フリーディア・フォン・ローエンシュタエン殿。貴殿に国家反逆罪等複数の嫌疑が掛かっている。よってこの場で、御身を拘束させていただきます」
「なっ……馬鹿なッ! 我等は戦から戻ったばかりだ! そんな事を企てる暇など無いだろう!」
驚きのあまり声も出ないのか、目を見開いたまま沈黙するフリーディアに代わって、同じ馬に騎乗するカルヴァスが声を荒げる。
「これはそのラズール戦線の総司令、ヒョードル様からの告発なのだがな……望むのならば、この場で罪状を読み上げるが?」
「ヒョードル殿……だと……?」
「……お願いします」
深いため息と共に憲兵がそう告げると、唇を結んだフリーディアが静かに頷いた。
「では……フリーディア・フォン・ローエンシュタエンはラズール戦線において不要な撤退命令を独断で下し、戦線を意図的に敗北させた。よってここに、同氏が国家反逆罪及び国家背信罪、及び敵前逃亡行為並びに利敵行為を行ったことを告発する。だそうだ。では、ご同行いただけますな?」
「馬鹿を言うな! 真っ先に逃げ出したのはヒョードルの奴だろうっ! あいつが今この町に居る事が証拠だ! フリーディア様を罪に問うと言うのならば、俺がここに――」
「――リック」
憲兵の言葉を聞いたミュルクが声を荒げると、フリーディアはそれを静かな声で制止し、ボロボロの体を引き摺りながら馬を降りる。
「お待ちくださいフリーディア様っ! これは明らかにッ――グッ……!!」
「ホラ見なさい。あまり声を荒げると本当に傷口が開くわよ? 私が潔白だと言うのなら、同行しない理由は無いわ」
「しかし――ッ!」
突如。尚も声を荒げるミュルクの前に掌が翳され、ミュルクは思わず口を噤む。その手はフリーディアを助け出し、ここまで連れて来た騎士にして白翼騎士団の副団長、カルヴァスのものだった。
「ありがと。カルヴァス。私は私に罪が無いことを、然るべき場所で証明して見せる……それまで騎士団の事、頼んだわ」
「……承りました」
フリーディアが笑顔を浮かべて振り返ると、カルヴァスは震える声でそれに応える。その手綱を持つ手が固く握りしめられているのは、馬上に居る騎士団の者達にしか見えなかった。
「待て」
「……何か?」
憲兵に周囲を囲まれたフリーディアが数歩歩いた時。カルヴァスの静かな声が憲兵を呼び止めた。一人の憲兵がその声に立ち止まって振り返ると、事務的な声でそれに応じる。
「見ての通り、フリーディア様は魔王軍軍団長との戦闘により負傷されている。この場で連れていくという事は、手厚い治療が施されると思って良いのだな?」
その時放たれたカルヴァスの声は、ミュルクが今までに聞いた事が無いほど平坦で、今までに感じた事が無いほどの殺気が込められていた。
「…………勿論です。恐らく、あなた方白翼騎士団にも近く謹慎命令が出るでしょう。ご準備をされるのでしたら、急いだ方がよろしいかと」
「……感謝する。フリーディア様の事、くれぐれもよろしく頼む」
残った憲兵が幾分か和らいだ口調でそう告げると、馬上のカルヴァスは深々と頭を下げた。その姿にミュルクは、言いようの無い感情が胸の奥に渦巻いたのを鮮明に覚えている。
「本当に……」
ぼそり。と。口の中で呟いたミュルクは、その先の言葉を無理矢理呑み下したのだった。
2020/11/23 誤字修正しました