1018話 ただ一つの親愛
――大嫌いだ。
シズク姉様を傷付けるあの女も。シズク姉様を虐める猫宮の家も。シズク姉様を利用するコイツ等も。みんな、みんな。
それでも、シズク姉様が良いというのなら。シズク姉様と共に居る事ができるのなら、それだけで私は構わない。
なのに。
「っ……!!!」
朝。目覚めると同時に、胸の中で煮え滾る怒りに、カガリはぎしりと歯を食いしばった。
ここは融和派の官舎の一角。この部屋は私達の為に急ごしらえであてがわれたもの。だから私の隣では、今もシズク姉様がすやすやと寝息を立てている。
「……また、泣いてた」
音を立てないようにこっそりと身を起こして姉の顔を覗き込むと、その泣き腫らしたであろう目尻には未だに涙の痕が残っていた。
「…………」
刹那。全身を駆け巡る耐え難い怒りの衝動。
狂った獣のように吠え猛りたくなる気持ちを呑み込み、カガリはぶるりと全身を震わせる。
嫌いなものは沢山ある。
けれど、単に嫌いなだけじゃない。絶対に許さないと誓ったのは、後にも先にもただ一人だけ。
「テミスッ……!!!」
憎しみを込め、カガリは掠れた声で怨敵の名を呟いた。
はじめはただ、突然シズク姉様の隣に現れた気に食わない女だった。けれど、シズク姉様はそんなあいつにいたく惚れ込んでいるみたいで、何度素気無くあしらわれようとも、あいつの為に働いていた。
そんないじらしい努力が実ったのか、いつの間にかシズク姉様の隣にはあいつが居座るようになった。
「でも……」
ふわり……と。
カガリは隣で眠るシズクの耳元を優しく撫でると、姉の耳がピクピクと動いた後、カガリの手を受け入れるかのように畳まれるのを見て笑みを浮かべる。
シズク姉様は寝ている間にこうやって耳の根元を撫でられるのが好きなんだ。これは恐らく、シズク自身すら知る由も無い幼い頃から寝食を共にしているカガリだけが知る秘密だった。
そして、怒りに塗り潰されそうになる心が穏やかに凪ぐまで、カガリは柔らかな手つきでシズクの頭を撫でた後、安らかに眠る姉を起こさぬように細心の注意を払いながら布団から抜け出した。
「姉様が笑っているなら……。傍でそれを見ている事ができるのなら、私はそれで良かったのに」
そこに嫉妬が無かったと言えば嘘になるだろう。
産まれてからずっと共に生きてきた大好きな姉なのだ。何処の馬の骨とも知らぬ奴がその隣に立っていて、大好きな姉の信頼を受けていて快いはずが無い。
それでも、褒められてあんなにも誇らし気なシズク姉様を見たのは、初めてだったから。
幸いにも、シズク姉様が私を重用してくれているお陰で、大好きなシズク姉様の側に居る事はできた。
むしろ、家だのなんだのと煩わしい連中から離れる事ができて良かったとまで思っていた。
だから仕方ないと。シズク姉様の隣を攫って行った大嫌いな奴だけど、ほんの少しだけ認めてやろうとしていた。
「なのに……」
身支度を整え、部屋の隅に姉のそれと揃って立て掛けておいた自分の刀を取り上げると、その鞘を固く握り締める。
あいつはシズク姉様の信頼を、私の信用を裏切って切り捨てたんだ。
自分に都合よく利用して、無茶な注文に応える為に怖い思いまでさせて。
シズク姉様は自分の夢すら、あいつの為に投げ打とうとしたのに。
――許せるはずが無い。
再び込み上げてきた怒りを堪えながら、カガリは手に取った刀を自らの腰へと納める。
昔の私なら、有無を言わさず斬りかかっていただろう。シズク姉様にこんな酷い事をしたのだ。四肢を切り落とし、痛みに泣き叫びながら死を懇願するまで嬲り尽くしても償いには到底足りやしない。
「…………。フゥ……」
頭の中でそこまで考えてから、カガリは小さく息を吐いて目を瞑る。
今の私は、きっと酷い顔をしているのだろう。シズク姉様の手前、平静を装って入るけれど、ひと皮をむけば私なんてこんなものだ。
私はそんな浅薄な自分が大嫌いで。こんな私にも優しくしてくれるシズク姉様が大好きだ。
「私では、勝てない」
故に、事実を声に出し、深く自分へと刻み込む。
あいつは途方も無く強い。私どころかシズク姉様でも足下にすら及ばない程に。もしかしたら、猫宮家の連中にも迫るかもしれない。
そんなあいつに私が挑めば、次こそきっと私は殺されるのだろう。
一太刀すら加えることもできず、文字通り手も足も出る事無く。
だが、私は知っている。そんな事になれば、シズク姉様が深く悲しんでしまうと。
……だから、それだけはできない。
なら、今の私に出来るのはシズク姉様を支える事だけなのだろう。
「…………。スゥッ……ハァ……」
深呼吸をして、意識を入れ替える。
ドロドロとした恨みや憎しみを深く……深く飲み下して。
シズク姉様の、ただ一人の妹として支えるのだ。
「シズク姉。起きて。朝だよ」
幾度となく思い返した誓いを改めて自身へと刻み込むと、カガリはぐっすりと眠っているシズクを起こしにかかるのだった。




