1009話 秘めたる大志
テミスとトウヤ。二人の間に横たわった沈黙を押し流すように、笛の音に似た音を奏でながら、一陣の風が吹き抜けていく。
そんな中、寂れた街角で向かい合った二人は、何かを語るでもなく互いの様子を伺いながら佇んでおり、緊張感だけが無意味に積み上がっていった。
そして。
「……所詮は人間という訳か。名乗りの礼儀すらも知らぬと見える」
「フッ……名乗る必要があるのか? よもや、私が何者であるか知らずに後を付けていたと? もしそうであるならば程度が知れるな」
「蛮族の思考だな。自らが何者であるかを示すが故に、その後の対話が誇りと責任を持って対等に成り立つというもの」
「クス……人間だの獣人だのと下らん括りに捕らわれている割には、存外囀るじゃないか」
「無益な挑発だな」
「挑発ではない。真実だよ」
舌戦の先端が斬られるや否や、テミスや皮肉気に、トウヤは侮蔑を込めて言葉を交わす。
互いに一歩も引かぬ激戦。だがその表情は対照的で。無感情に言葉を返すトウヤに対して、深く被った外套の陰から覗くテミスの口元は半月状に歪められていた。
「だが……お前の意見にはおおむね賛成できる。囀ったその言葉が本心であるかは別として……ではあるがな」
「ならば、下らん戯れ言ばかり並べる前に名乗りを上げたらどうだ?」
「そうだな。フム……私の名はサキュド。それだけさ。お前と違って私には家柄など無いのでな」
「っ……!!」
ピクリ。と。
静かに息を吐いた後、まるで呼吸をするかの如くテミスが偽りの名を述べると、眼前のトウヤの肩が微かに跳ねた。
同時に、彼が身に纏う外套の下からは、ギチリと何かが擦れる鈍い音が響く。
「フッ……付け回された意趣返しはこの程度にしておいてやるか。私の名はテミス。次からは用があるのならば、誇りだの責任だのと御大層な言葉を並べる前に堂々と訊ねて来い」
「…………。やれやれ、噂通りだな。大した弁舌だ。俺の負けだ」
改めて名乗りを上げたテミスに、トウヤは軽く両手を上げて溜息を吐くと、被った外套のフードを脱いで苦笑いを浮かべた素顔を晒した。
その顔立ちはテミスがシズクの話を聞いて想像していたよりも遥かに若々しく、ずっと表情に富んでいる。
「それで? ご用向きは?」
「っ……!! ……君の真意が聞きたくてね」
フードを脱いだトウヤに倣い、テミスも自らの外套のフードを下すと、皮肉気な笑みを浮かべたまま問いかけた。
すると一瞬、トウヤは驚いたように目を見開いた後、即座にそれを隠すかのように真顔に戻って問いに答える。
「この戦いは我々獣人族の戦いだ。シズクが連れて来たとはいえ、いわば君は部外者。何故そうまでして我々に関わろうとする?」
「下らん問いだ。あぁ……実に下らん。お前達は自身が何を掲げているのかを考えてみろ」
「我等の受けた屈辱を、無念を晴らす事に何の問題が? 外から来たお前には関係あるまい」
「ハァ……なら、問い返すとしようか。仮にロンヴァルディアで、王女が獣人族の抹殺を掲げて王位の簒奪に掛かったらどうする?」
「………………。成る程。理解はできた」
「クク……その顔では、納得できてはいないらしい」
到底……納得などできないだろうな。
胸の中でそう独りごちりながら、テミスは歯を食いしばり、眉根に皺を寄せるトウヤへ歪んだ笑みを浮かべ続けた。
獣人族が口を揃えて唱える復讐の根底にあるのは、人間という種族そのものへ向けられた怒りだ。
つまるところ、彼等の中で人間という種族は全て罪人であり、故に自分達の安全を護る為の介入も、理屈の上では理解できても感情がそれを許さないのだろう。
「……ならば手を引け。お前の住む国に手は出さぬよう計らおう」
「なに……?」
しかし直後。トウヤが言い放ったのはテミスがこれまでこの国で見聞きし、分析した感情から出る言葉とは真逆のものだった。
だからこそ、テミスは驚きを隠す事ができず、その顔に素直な表情を浮かべたまま問い返した。
「生憎、俺は爺様たちのように怒りや恨みを持っている訳では無い。ただ己が強さに然るべき世界を欲しているのみ」
「……お前達ならば勝てると? 魔導国エルトニアの魔導兵器や強力な冒険者将校を擁するロンヴァルディア……そして精強な軍団長を揃える魔王軍に」
「さぁな。それは立ち会ってみなくてはわからん。だが挑みすらせず、このような北の果てに黙って押し込められているなど愚の骨頂だ」
「クク……なるほど? 澄ました顔をしているものだから、規律や思想に縛られたつまらん男かと思ったが……大した熱血漢じゃないか」
いま告げられたトウヤの言葉に嘘は無いのだろう。
想定外にまろび出てしまった率直に問いかけに、燃えるような瞳を向けて言葉を返すトウヤを見て、テミスはそう直感する。
蛮勇を誇るのは構わんし、大志を抱いて世界へ挑むその想いは素晴らしいとは思う。
……だが。
その過程でいったい幾つの屍がその足元に積み上がるのだろうか。
そしてトウヤの言葉通り、彼の強さに然るべき地を支配したとしても、こんな北の果ての地の悲劇すら見過ごす男が、善政を敷けるとのたまうのだろうか。
「そういう事だ。俺達の間に争う理由は無い。あのシロウを倒した程の腕を持つ者であれば理解できるだろう?」
そんな、まるで既に結論は決したと言わんばかりに得意気な笑みを浮かべて語るトウヤに、テミスは黙したままその顔に皮肉気な笑みを張り付け、氷のように冷たい眼差しを向けていたのだった。




