1001話 戦姫の休息・月見酒
その日の夜。
テミスは皆が寝静まった頃を見計らうと、暗闇の中でムクリとその身を起こし、微かな衣擦れの音だけを残して布団から這い出る。
どうにかこうにかシズクの怒りをやり過ごした後は、階下に避難していたオヴィムとアルスリードを加えて、シズク達からの報告を聞きながらの夕食となった。
尤も、事前に危惧していた通り、シズク達が食べる分とは別に用意されたテミスの食事は粥のみで。重湯でしかなかった先日と比べれば、粥と呼べるだけの固形物が入っていた事は進歩といえるだろうが、それでもひどく味気が無かったのは間違いが無い。
「……やれやれ」
ぺたり。と。
布団を抜け出したテミスは枕元に隠しておいた外套だけを手に取ると、足音を殺して廊下に出て苦笑いを浮かべる。
確かに死にかけていた身だ。こうして我が事であるかのように心配をしてくれるのは有り難い事ではある。だが、私とて一人の人間だ。こうも過保護では息抜きをしたくなるというものだ。
「月が……綺麗だ……」
廊下に出て、身を斬るような寒さに晒されながら、テミスは真っ先に外套をその身に纏うと、ふと壊れた窓から差し込んで来る月明りに目を惹かれて空を見上げた。
そこには、この国に来てからずっと上空に立ち込めていた厚い雲は、遠くに見える尾根が切り裂いたかのように二つに割れ、その隙間から煌々と輝く月が眩い光を放っていた。
「……月見酒と洒落込むか」
そう独りごちり、テミスは自らが昼間に買い付け、この拠点の中に隠した品を求めて、廊下の奥へと歩を進める。
テミス達が寝床としている大部屋の他、この建物の客室は隣の一室を除いてすべからく崩落している。つまり、この先には屋根の落ちた瓦礫に埋もれた部屋しか残っていない訳なのだが。
「クク……重畳重畳」
中程まで進んだテミスは扉を開いて崩れた部屋の中へと足を踏み入れると、ニヤリと口角を吊り上げて独り何度も頷いた。
屋根が落ち、瓦礫だらけになった部屋は無論の事使い物にはならない。
延々と降り続く雪が随所に降り積もっているし、壁も半ばまで崩れかけている。
だが同時に、空に浮かぶ月を眺めながら、誰にも邪魔をされる事無く酒を嗜むには、この場所はこれ以上ない隠れ家と変貌を遂げていた。
「机はこれ。椅子は……ちと不格好だがこれでいいか」
独り言を呟きながら、テミスは無数に転がっている瓦礫を選り分けると、その上にこの部屋の中に隠していた品々を並べて一息を吐く。
分厚い雲が切り裂かれたお陰か、ただでさえ凍て付いていた周囲の空気は一層冷たく、テミスの口元も吐く息が白く煙っている。
しかしその寒さが、暖かな部屋と柔らかな布団で守られて緩んだ頭を引き締めるには都合が良かった。
「面倒な話だ」
水のように透き通った色の瓶を取り上げると、テミスは片手に取った杯の中に酒を注ぎながら、ため息まじりに言葉を漏らす。
シズク達の報告と買い物ついでに入手したあの商人の情報をすり合わせると、このギルファーに横たわる問題は酷く根深いものであることが良く見えてきた。
先日の戦闘以来、町の人々の間には不穏な空気が流れ始め、特に人間族の奴隷の売買が活発化している。加えて猫宮家の妙な動きと、馬鹿の一つ覚えのように憎しみを吐き散らす過激派の連中。
魔王軍の連中や、強欲で傲慢な人間共との戦いの末にようやく手に入れたファントの平穏。再び迫る災禍を退けるべく飛び込んでみたは良いものの問題は山積み。最早フリーディアやサキュド達と共に進撃し、何もかもを押し流してしまった方が手っ取り早いようにも思えてくる。
「あいつらは……元気かな……?」
最早懐かしさすら覚えるファントの町を、そこに暮らす仲間達の顔を思い浮かべてテミスはひとりごちる。
あの岩窟で出会った商人……ジュンペイから聞いた話では、相も変わらず賑やかで華やかにやっているそうだが、こうして一人長く離れると、どうしようもない寂しさが腹の底からせり上がってくるのだ。
「あぁ……マーサさんの飯が食べたい。アリーシャ……ちゃんと休めているか?」
一度溢れた思いは止まることなく、いつの間にか胸の中に抱いていた感情が言葉となって零れ落ちる。
しかし、いくら思い浮かべたところで、口に含んだ干し肉がマーサの暖かな手料理に変わる事は無い。
こんな気分になるのは、この建物の造りがマーサの営むあの宿屋に酷く似ているからだろうか? そうなのだとすれば、これは俗に言う所のホームシックというヤツなのだろう。
つまるところ、あの町は私にとっていつの間にか帰る場所と呼べる程の愛着が沸いていたらしい。
こうして酒を煽っている今も、焦がれるような想いがこの胸を締め付けている。
だが……だからこそ。
「……私の目的はファントの平穏だ。様々な思惑が交じり、もつれて結ばれ、解く事が容易ではないというのなら……」
つぃ……と。
再び杯を傾けたテミスは一度言葉を切って酒を喉へと流し込むと、頭上で美しく輝く月を睨み付け、言葉を続けたのだった。
「……断ち斬るのも止む無し。か」




