996話 確かな隔たり
その声には聞き覚えがあった。
凛と芯のある冷たい声の中に、ひとさじの優しさを混ぜたかのような、聞く者に微かな緊張感を与えると共に、柔らかく惹き付ける声。
そうだ。他でもない私が聞き違えるはずも無い。
「っ……!! こっちの棚の陰へ。早く……!!」
凍り付く空気の中、店主はカウンターのように並べられた棚の陰を指し示すと、ボソボソと押し殺した声でシズク達へと告げた。
最早、幾ばくの猶予も無い。声が響いてくるのはこの店の入り口から。店内に居るシズク達に最早退路など無く、この押し殺した声でさえ、もしかしたら聴き取られているかも知れない。
そんな恐怖に押し潰されそうになりながらも、シズクは店主の言葉に小さく頷くと、ガタガタと震えるカガリの身体を押して、示された棚の陰へと飛び込んだ。
その直後。
「店主殿? ……すまないが入らせて貰うぞ?」
幾度呼び掛けても返ってこない返答に業を煮やしたのか、遂に店の扉ががらりと音を立てて開き、そこから一人の女が姿を現した。
長く、艶やかな黒髪に切れ長な目、目を見張る程の美人ではあるが表情に乏しいと揶揄される顔には、僅かな動揺と不満が浮かんでいる。
「……中に居るのであれば、一言応じていただきたかったものだが」
「いやぁ……スイマセンね。ちょうど今、扉をお開けして差し上げようとした所でしたもので」
「それにしては……コホン。いや、止そう。この手の舌戦で私が貴方に勝てる通りも無い」
「冗談言っちゃいけねぇ。アタシみたいな一介の商人風情が紫サンに敵う所なんてある訳が無いでさァ」
緊迫感に溢れる会話を聞きながら、シズクはカガリと共に棚の後ろで必死に息を殺していた。
そう。今店主と話している彼女こそ、猫宮紫。シズクとカガリの実の姉に当たる者であると同時に、猫宮一族が誇る稀代の剣士なのだ。
「フム……? それよりも……」
「っ…………如何、致しました?」
「いや。てっきり客が来ているのかと思ったのだが……」
「――っ!!」
言葉と共にユカリが静かに店内を見回すと、棚の陰に身を潜めているシズクとカガリはビクリと身を縮こまらせて息を潜める。
静まり返った店内に、ドクドクと脈打つ自分の心臓がやけにうるさい。
紫姉様は剣の達人だ。気配を辿るなんて朝飯前の筈。いや……もしかしたら、この心臓の音すらも既に聴こえていて、私達に出て来いと暗に告げているのでは……?
今にも押し潰されてしまいそうな緊張感に、シズクの頬を音も無く冷や汗が伝う。
だが。
「お客ですかい? アタシはちょうど今、奥から出てきたところです。きっと、紫サンの勘違いでしょう」
「っ…………。そう……かもな……」
店主が朗らかな口調でそう告げると、ユカリはピクリと肩を震わせ、店の中に彷徨わせていた視線を下した。
その姿はまるで、親に叱られた子がしょぼくれているかのようだった。
そしてしばらくの沈黙が続いた後、一転して店の中に重たい空気が漂い始めると、ユカリはシズク達が聞いた事すら無いような弱々しい声で口を開く。
「……もう、紫お嬢とは……呼んでくれないのだな」
「えぇ。紫サンはもう立派な大人でしょう。ご自分で道を選び、切り拓く事のできる力を持っている」
「馬鹿を言うな……。たった二人の妹を見つけ出す事さえできないんだぞ」
「…………」
コツリ。と。
ユカリが疲れの滲んだ震える声でそう告げた前で、店主は口を噤んだまま一つ足音を立てて彼女へと歩み寄った。
そして、ゆっくりと腰をかがめて俯くユカリに顔を寄せると、柔らかな……しかしどこか無機質で冷たい声で言葉を返した。
「……見つけ出して、その後はどうするんですかい?」
「っ……!!」
「紫サン。今、貴女がこうしてお嬢達を探しているのは何故です? 姉として妹たちが心配だから? 家族の情? ……いいや違う。お家の為……猫宮の家の為でしょう」
「………………」
淡々と店主から放たれた言葉は驚く程に冷たく、そして刀で斬り付けるかのように鋭かった。
その言葉に込められたあまりの冷酷さには、傍らで身を潜めて聞いているだけのシズクとカガリですら絶句してしまう程で。
そんな言葉を店主から浴びせられたユカリは、反射的に顔を上げた格好で、驚愕に目を見開いたまま凍り付いていた。
「…………。……良かった。違う……とは言わないんですね」
「言える訳が……無いじゃないか」
「えぇ。貴女がまだ、幾ばくかはヒトの心を残している様で本当に良かった。猫宮家はお得意様だ……出来ればアタシも失いたくは無いんです」
しかし短い沈黙の後。
店主は幾ばくか鋭さと冷たさの和らいだ口調で言葉を続けながら、覗き込むように乗り出した身を正して、ゆっくりとした足取りでカウンターの方へと踵を返す。
そして、店の奥へと続く通路になっている隙間に陣取ると、絞り出すような声で言葉を返すユカリに、穏やかな口調でそう告げたのだった。




