993話 快刀乱麻の大脱出
もう迷わない。何処までできるかは分からないけれど、ただ今は全身全霊でテミスさんの信用に応えてみせる。
そう決意すると、アルスリードは深く息を吸い込みながら、壁際で両手を組み、腰を落として構えるテミスを振り向いた。
「……いきます」
「――来いッ!!」
昂る鼓動を感じながらそう告げると、テミスはコクリと頷いてアルスリードへと視線を注ぎ続ける。
……ああ、そうか。やはりこの人はとんでもない人だ。
脚に力を込めながら身体を沈めると同時に、アルスリードは胸の中にじんわりと広がる思いを噛みしめた。
人を射出台にした大跳躍なんて、普通ならば考えつきもしない。何故なら、得られる成果に比べて難易度が高すぎるからだ。
第一に、射出する役が構えた手を踏み外す事無く飛び乗る並外れた正確性が必要だ。しかもその次に待っているのは、互いの呼吸を合わせた第二の跳躍。飛び上がる役が跳躍するタイミングと、射出する役が放り投げるタイミングがぴったりと合わなければ、この絶技は成功しない。
だというのに、彼女は全て僕に合わせるつもりなのだ。
故に、今も片時すらその視線は僕の目を捉えて離さず、異様なまでの緊張を漂わせている。
「ッ……!!」
なら、いける。
僕はただ、テミスさんという弓に撃ち出される矢だ。何故なら、彼の英雄が放つやが標的を外す事などあり得ないから。
そうアルスリードは固めた決意を燃やして駆け出すと、テミスの構えた手に飛び乗るべく、全力で飛び上がる。
「っ……!!」
「ぉぉぉッ!!」
同時に、伸びた膝を折りたたんで再び力を溜め、足の裏に感じる柔らかな感触を信じて全てを解き放った。
瞬間。
響く力強い雄叫びと共にアルスリードの視界が一気に開け、壁の向こう側に広がるギルファーの町が視界に飛び込んで来る。
「やったっ!!」
「クッ……!!!」
だが。
宙を舞いながら歓声を上げた直後、自らの下から息を呑んだ声が聞こえ、アルスリードは自らの置かれた状況を理解した。
遠すぎる。
高さこそ十分にあったものの、テミスの力を借りて跳び上がったアルスリードの身体は壁から少し離れていた。
その距離は約一メートル程。恐らく、テミスさんの手を踏み台にして跳躍した時、僅かにタイミングがずれたのだろう。
だが、地上であれば一秒と経たず詰められる距離であっても、何の支えも無く空宙を舞うアルスリードに打てる手など無く、ただ必死に腕を伸ばした格好で地上へと墜ちていく。
「うぁっ……!?」
「ぐ……ぅっ……!!」
かくして、数秒にも満たないアルスリードの空の旅は終わりを告げ、ドサリという鈍い音と共に地上へと墜落した。
けれど、我ながら酷い格好で墜ちたにも関わらず身体に走った衝撃は弱く、身体に痛みも無い。
不思議に思ったアルスリードが落下の瞬間、恐怖に負けて瞑った目を開くとそこには、アルスリードの下でうめき声をあげるテミスの姿があった。
「テミスさんッ!?」
「大事無い。もう一度だ。急げッ!!」
「でも――」
「――早くッ!!!」
アルスリードは慌てて飛び退いて声をかけるが、テミスは表情を歪めながらも短く言葉を返すだけで。
終いにはその身を心配して告げようとした言葉に罵声を重ねられてしまう。
「ッ……!!」
しかしその時、アルスリードの耳が背後から響く衛兵の叫び声を鋭敏に捉えた。
もう、時間が無い。
テミスさんを引き上げる時間を考えるのなら、残るチャンスはあと……。
そんな思考が頭の片隅を過った瞬間。アルスリードはギラリと目を見開いて考えるのをやめた。
何度もチャンスなんて要らない。この一回で成功させるのだ。
「さっきと同じ感じで……いきます!!」
「あぁッ!!」
アルスリードはただ一言、そう叫んで再び駆け出した。
さっきの一回……僕には確かにテミスさんへの甘えがあった。
こんなすごい作戦を立てる人なんだから、何とかしてくれる……と。
けれど、普段から慣れ親しんでいる訳でも無いのに、自分の呼吸を他人の呼吸へ完璧に合わせるなんて不可能だ。
だけど、僕にはテミスさんの呼吸を読んで、こちらからも息を合わせにいく事なんてできない。
なら、出来る事はただ一つ。
さっきの一回をただ忠実に再現するだけ。
「ッ……!! ああああぁぁぁぁぁッッ!!」
「セェェッッ!!」
二人の叫びが重なり、アルスリードの身体が再び宙を舞う。
全力でテミスの手を蹴って跳び上がった眼前には、そびえ立つ塀のてっぺんがあって。
アルスリードは無我夢中で手を伸ばして塀を掴むと、渾身の力で塀の上へとよじ登って眼下を振り返る。
「居たぞッ!! あそこだッ!!」
「っ……!!」
そこでは既に、壁から距離を取って助走の体勢に入っているテミスの姿と、その背後から駆けてきた衛兵たちの姿があった。
「テ――ッ……!! いけますッ!!」
「よしッ!!」
それを見たアルスリードは、思わずテミスの名を叫びそうになるのを堪え、塀の上にしがみつきながら全力でテミスへと手を伸ばした。
すると、テミスは背後を振り向くことなくアルスリードへと頷いた後、目にも留まらぬ速さで壁へと向けて駆け出した。
そして。
「っ……!!! ぐっ……ッ……!?」
「少し踏ん張れッ!! はぁッ!!」
アルスリードの腕に、肩が抜け落ちそうになる程の衝撃が走ったかと思うとすぐにその重さは消え、代わりに眼前へ外套をはためかせたテミスがふわりと着地する。
そんな彼女が浮かべていた鋭くて不敵な笑みは背筋が凍る程に美しくて。
一瞬、アルスリードはここが壁の上である事など忘れて、その笑顔に魅入ってしまった。
「何をしている!? 行くぞッ!! 私の真似をして続け!」
「……ッ!! は、はいッ!!」
次の瞬間。
アルスリードは間近から響いた声に我を取り戻すと、町の側へと降りるべくテミスの後に続いたのだった。




