991話 荒唐無稽な逃走劇
ドズンッ! と。
僅かな衝撃を伴って、静寂に満たされた廊下に鈍い音が響く。
その出所は間違い無くテミスその人で。テミスはナイフを扉の脇へと突き立てた後、愕然と目を見開くアルスリードを振り返って不敵な笑みを浮かべた。
「これでよし……だ。さあ、派手に脱出するぞッ!!」
「えっ……!?」
だが、突如として響いた音に部屋の中が騒がしくなる前に、テミスは立ち尽くすアルスリードの手を引いて脱兎の如く駆け始める。
先程、連中が入っていった部屋は一枚扉の引き戸だった。
つまり、ナイフを扉と壁の継ぎ目に深々と突き立ててやれば、曲者どもを簡単に中へと閉じ込める事ができるのだ。
「ククッ……!! 運が良かった。実に幸運だったな!」
「無茶苦茶ですよ!! それにあんな音を立てて……僕達まで見つかったらどうするんですかッ!?」
「構わんさ。承知の上だ」
ニヤリと口角を歪めて笑うテミスに、アルスリードは目尻に涙を浮かべて抗議する。
大怪我を負ったというテミスさんがその身を押してまで来ているのだ。今回の事はそれ程まで重要な事のはずだ。なのに、まさかあんな暴挙に出るなんて……!!
しかし幸いな事に、先程の鈍い音は遠目に見える騒がしい玄関ホールの者達には届いていないようで、廊下の向こうから誰一人としてこちらに向かって来るものは見受けられなかった。
「待って下さい! 大丈夫そうですよ! ここの人たちには気付かれていなさそうです」
「なに……? それはまずいな」
「へっ……?」
しかし、アルスリードの言葉にテミスはピタリと足を止めると、手近な扉を開けて部屋の中へと転がり込む。
テミスに腕を引かれるがままに入った部屋。そこはどうやら本や文書の類を保管するための部屋のようで。所狭しと並べられた本棚には、大小さまざまな種類の紙を束ねた紙束や、分厚い本がぎっしりと並べられていた。
「ほぉ……これは良い」
「ちょっ……!? テミスさんッ!? お願いだから待って下さい!! 一体何をするつもりなのですかッ!?」
困惑に立ち尽くすアルスリードを余所に、テミスは一人でコツコツと足音高く部屋の奥へと歩を進めると、最奥の窓際に並べられた本棚の傍らに膝を付いてほくそ笑んでいる。
無論。窓には獣の皮をなめした分厚いカーテンがかけられており、外の様子を窺い知る事はできない。
けれど確実に。これからこの女がやろうとしている事は無茶苦茶な事だ……。と、アルスリードは直感していた。
「何をする……? 決まっているじゃないか。逃げるんだよ。この建物からな」
「ですがッ……!!」
「話している暇はあまりない。口を動かすのは構わんが手伝え。そら、お前はそっち側だ」
「えぇっ……?」
「早くッ!!」
「は、はいっ!!」
渋るアルスリードを、テミスは先程までの徹底した隠密行動は何だったのかと思う程の声量で怒鳴り付けると、調べていた本棚の端に身体を寄せて、その逆側をアルスリードへと示した。その格好はまるで、この本棚を押し倒そうとしているかのようで。
アルスリードはひしひしと嫌な予感を背に感じながらも、テミスの指示に従って本棚に身を寄せる。
「よし……押すぞッ!! 1、2の、3ッ……!!」
「やっぱりっ!? 何でッ!?」
「ククッ……」
テミスはアルスリードが位置に付いたのを確認すると、すぐに次の指示を出して号令をかけた。
その、何故かとても楽しそうなテミスの掛け声と共に、アルスリードは困惑を露にしながらも指示に従って本棚へと力を籠める。
すると、ギ……ギィ……。と本棚は鈍い音を立てて徐々に窓へ向けて傾ぎ始め、その軋む音は次第に大きくなっていく。
そんな中、頬すら本棚へ寄せて全力で力を籠めるテミスが、ニヤリと口角を上げて口を開いた。
「アルスリードよ。私達はここの連中に見つかってはいけない。だが同時に、あの怪し気な連中を見逃す訳にはいかないだろう?」
「それは……そう……ですが……」
「簡易的ではあるが連中は閉じ込めた。だが先程お前が気付いた通り、蒙昧にもここの連中は奴等の存在に気付いていない。あと僅かであれば時間は稼げるだろうが、このままでは逃げられてしまう」
「っ……!! まさ……か……ッ!!」
「クハハハッ!! そうさ! 気付かないのならば気付かせてやればいいッ!! 派手に窓でも叩き割ってやれば、嫌でもすっ飛んで来るだろうッ!」
「っ~~~!!!!」
説明されて漸く、アルスリードは自らの予感が正しかったと確信した。
つまるところ、テミスの作戦は単純にして明快。
自分達で騒ぎを起こして融和派の者をこの場に呼び寄せると同時に建物を脱出し、駆け付けた融和派の者達が部屋に閉じ込めた怪し気な連中に気付いて対処をしている間に、自分達は逃げるというものだ。
無茶苦茶にも程がある。もしかして、ここが味方の拠点であると忘れているのではないだろうかと思うほどだ。
しかし、アルスリードが嘆きを口にする暇も無く、二人の渾身の力によって押し倒された本棚が派手な音を立てて窓を突き破り、二人の眼前で坂道へと姿を変えた。
「ハハッ……!! 行くぞッ!! 遅れるなよッ……!!!」
「あぁッ……!!! もう!! わかりましたッ!!!!」
その瞬間。
テミスは高笑いと共に坂道となった本棚を駆け上がり、身に纏った外套をはためかせながら建物の外へと身を躍らせる。
もはや後戻りなどできない。
そう理解したアルスリードは、胸に込み上げてきた様々な感情を飲み下して叫ぶと、テミスの背に続いたのだった。




