989話 密かな邂逅
「ムグッ――!? グッ……!!」
ドサリ。と。
口を塞がれ、抱き着かれるような格好で捕らわれたテミスは、床へと倒れ込みながらその刹那の間に状況を把握した。
背後から組み付いている敵は一人。片手で口を覆い、開いた片手は腕ごと胴に回されている。
明らかに訓練された動き。察するに相応の手練れなのだろう。
だが、幸いな事に相手の体躯もテミスと同等か……むしろそれ以上に小柄で。その所為か腹に回された手は、テミスが倒れ込んだ際に受け身を取るべく、咄嗟に伸ばした右腕を捕らえ切れていなかった。
「ンンッ!!」
「ッ――!!」
故に。襲撃者と共に床に倒れ伏す際にあえて受け身を取る事はせず、その代わりに僅かに身体を捻って襲撃者の身体をクッション代わりに着地する。
その結果、テミスの目論見通りに襲撃者は苦悶の声を漏らす。
だが、襲撃者は自らを襲った衝撃に身体を震わせたものの、テミスを拘束する腕の力が緩む事は無く、そのまま二人は部屋の床をゴロゴロと転がりながら激しい攻防を繰り広げた。
「グゥッ……」
「このっ……!!」
「ムッ……!!」
「大人しく……しろっ……!!」
「フゥッ……!!」
「ッ……!!!」
部屋の中に設置されている本棚か、あるいは机や椅子の類なのか。二人は激しく揉み合う中でその身を様々な物へと打ち付けて転がりまわる。
だが、拘束から逃れる側のテミスは口の塞がれており、満足に呼吸をする事ができない。
次第に息苦しくなっていく焦りの中で、テミスは何とか拘束から逃れるべく、左右に身を捩り、首を振り回す。
それは派手な音こそ響かぬものの激しい乱闘で。
テミスの姿を覆い隠していた外套ははだけ、既にフードも落ちてその長い白銀の髪が暗い部屋の中に舞っていた。
そして。
「えっ……?」
「っ……!! チィッ……!!」
「――!!」
突如。
襲撃者が素っ頓狂な声をあげたかと思うと、テミスの身体を捕えていた拘束が僅かに緩んで隙が生じる。
無論。テミスがそんな隙を逃すはずも無く、唯一自由の利く片腕を密着する襲撃者との身体の間に捻じ込んで力を籠め、更に強引に身体を回転させて拘束から脱出した。
だが、テミスの想定を超えて怪我で消耗した身体は弱く、拘束から脱出しただけだというのに荒い呼吸を繰り返していた。
「ハッ……ハッ……何も――」
「――シッ!!」
「もがっ……!?」
襲撃者の腕から脱出したテミスはともかく距離を取るべく勢いのままに床の上を転がった後、床に両手をついて体制を持ち上げ、襲撃者の正体を見定めるべく口を開こうとする。
しかし、テミスの予測に反して襲撃者は真っ向からテミスへ向けて突っ込んでくると、開きかけた口にパチンと手を当てて言葉を封じた。
けれど今回は口に手を当てられて塞がれただけで、身体は拘束されてはいない。
だからこそテミスは半ば反射的に、自らの口を塞ぐ襲撃者の手首を掴んで引き剥がすと改めて問いを口にすべく大きく息を吸い込んだ。
そして、その口から怒気と共に問いが発せられる刹那。
「――待って下さいテミスさんッ! 僕です! アルス……アルスリードです!」
「ッ……!?」
襲撃者は押し殺した囁き声でテミスの名を呼ぶと、ボソボソと口早に自らの名を名乗った。
その名は紛れも無く、テミス達がこの場から連れ出すべく探して回っていた者の名で。
アルスリードの名を聞いたテミスが怒声を漏らしかけた喉に咄嗟に力を籠めると、開いた口からは息の詰まったような音が僅かに漏れただけで留まった。
「手荒な真似をしてすみません。まさかテミスさんだとは思わず……。ですが、何故ここへ……? シズクさんから、貴女は大怪我を負ったと聞きましたが」
「ハッ……ハッ……ハ……ッ……。お前こそ……こんな所で何をしている?」
「僕ですか? 出来る限りの情報収集をしておきたいと思いまして。僕だって現状はある程は度理解していますから」
「なる……ほど……それでこんな所に忍び込んでいたという訳か。奴の弟子らしい。だが、ある意味では好都合だ」
テミスはアルスリードに合わせて声を潜めると、乱れた息を整えながら言葉を交わす。
そして、彼の状況を理解すると、クスリと不敵な笑みを浮かべて音も無く立ち上がり、無造作に先程の揉み合いで乱れた衣服を整えていく。
「っ…………」
「私の用件はお前だ。オヴィムと迎えに来た。今からこの建物を抜け出すぞ。三分時間をやるから荷物をまとめて……ン?」
「――ッ!! は、はい。わかりました! すぐに戻りますッ!!」
同時に、淡々とした口調で言葉を紡ぐテミスは、その途中で背をくすぐる様な視線を感じて言葉を止めた。
しかし、視線を感じた方向に目を向けたところで、そこには慌てたように顔をそむけているアルスリードしか居なかった。
だが、当のアルスリードはテミスが皆まで言い終わるより早くその言葉に了承すると、目を見張るような素早さで戸をすり抜けて飛び出していった。
「…………? あぁ……。クス……可愛い奴め……」
その後数秒。
テミスは目を瞬かせて首を傾げていたものの、ちょうど帯を結んでいる最中で止まっている手に視線を落とすと、クスクスと笑みを漏らして得心したかのように呟いたのだった。




