988話 刹那の油断
融和派の拠点に出入りする人々の群れが再び流れを取り戻した頃。
テミスは不敵な笑みを浮かべながら、その様子をかつてカガリと刃を交えた玄関ホールの片隅から眺めて居た。
「ククッ……他愛のない……」
そして、自らの存在が露見した訳では無い事を確信すると、即座に頭を引っ込めてゆっくりとした足取りでホールの隅を歩いていく。
元来、この拠点に配されている衛兵たちの練度は低くは無いはすなのだが、どうやら先の戦いで動ける者が減ったしわ寄せは予想以上に厳しいらしい。
何故なら、この拠点へ侵入するにあたってテミスの用いた手法は、小柄なものであれば誰でもできる単純極まりないものなのだから。
「……後程、それとなくオヴィムから伝えさせるか」
ホールから伸びる通路へと身を振べり込ませながら、テミスは手に付いた汚れを叩いて払うと、苦虫を噛み潰したような顔で呟きを漏らす。
以前何処かで、あえて刑務所から脱走することで、その警備の脆弱性を露呈させる話を聞いたが、なるほど確かに効果的だ。
頑強さを自負する自分の拠点に侵入する事で自らを鍛える事ができるし、守る側も被害無く思わぬ弱点を見付ける事ができる。
「ファントに戻ったら試してみるか……」
テミスは玄関ホールから一転して人気の消えた廊下を足音を殺して駆け抜け、壁に背を当てて周囲の気配を探りながらひとりごちる。
よもや、この拠点のように人混みの足を止めさせ、その足元の隙間や僅かに開いた人々の間を駆け抜ければ破れるなどという、致命的な弱点は無いと思いたい。
「いっその事、競うのも面白いかもしれん。白翼騎士団の連中とサキュド達……訓練を兼ねたレクリエージョンと思えば盛り上がりそうだ」
呟きながら廊下に並んだ扉を薄く開けて中を覗くと、テミスは久しく会っていない仲間達の顔を思い浮かべて微笑みを浮かべた。
今頃、ファントのみんなはどうしているのだろうか。きっと伸びやかな平穏の時を、笑顔で謳歌しているのだろう。
それとも……。
「ッ……。フム……。用件が増えたな」
ふと、脳裏を過った不安にテミスは足を止めると、眉を顰めてボソリと呟く。
思えばこの町に来てから、ファントに関する情報を一切耳にしていない。
それは、この極北に位置する町がファントから遠く離れているというだけが理由ではないだろう。
今この町に居る者は、誰も彼もこの国の行く末に執心している。
故に、元より閉鎖的であった気風はより強まり、ギルファー国外の情報が得られないのだ。
「チィ……。この区画は外れか……」
胸の中に暗澹たる思いを抱えながらも、人気のない廊下を駆けずり回って十数分。テミスは目の前に現れた階段に足を止めて舌打ちをする。
見たところ、人の気配が無いのを良いことに忍び込んだこの区画は、倉庫や資料室といった部屋ばかりだった。
そもそも、アルスリード達は融和派の連中にとって客人であり人質なのだ。こんな逃げ出しやすく攻められ易い事務所然とした区画ではなく、客室か居住区画か……そういった類の所に居ると考えるべきだろう。
「ッ……。よし……」
そう判断すると、テミスは潜入しやすいこの区画を選んだ自らの安易さに歯噛みしながら、その視線を二階へと向け、壁に背を預けながらゆっくりと上っていく。
警備に守られた拠点の中とはいえ、自らの風体が怪しいことに変わりは無い。
たとえ時間がかかったとしても、極力人の目は避けるべきだ。
「…………ろうな」
「――ッ!!!」
迫る時間に焦れ始めていたテミスではあったが、自らが進む階段の上の方から微かに話声が聞こえた瞬間。テミスはその場へ咄嗟に身を伏せながら、駆け出さなかった己の理性に感謝していた。
そして、そのまま這うような姿勢で慎重に階段を上っていくと、微かに響く話し声がより鮮明に漏れ聞こえてくる。
「ったく、勘弁してほしいぜ……。猫宮ったらあの猫宮だろ?」
「あぁ。連中の中でも有数の歴史を持つ名家で、いっとうお堅い奴等の集まるあの猫宮家さ」
「っつーか、なんでまた連中が息まいてんだ? もしかして、この間の戦いで一族の人間でも殺られたか?」
「いいや、正統な猫宮家の奴等に勝てる奴なんざそうそう居る訳ないさ。俺が噂を聞く限りじゃ、この間の戦いで死んだ有名所といえばシロウくらいだな。あとはリュウコがかなりの重症らしい」
「ウソだろ……? 誰がやったんだ? まさか出涸らしが……?」
「いんや。だが、この間ヤツが連れて来た人間が居ただろ? どうも、猫宮家が動き出したのもそれが原因らしい」
そんな、軽い口調で交わされる会話の内容に聞き耳を立てながら、テミスは身を隠したまま思わず身震いをしていた。
彼等にとっては、よくある何のことは無いうわさ話なのだろう。
だが渦中であるテミスにとっては、たとえそれが根拠のない噂話であったとしても、値千金の情報だった。
「っ……!! クソ……もう少し詳しく……」
姿の見えぬ者達の噂話に惹かれ、テミスはソロリソロリと慎重に階段を上り切ると、階下と変わらず扉の並んだ廊下に背を預けながら、声の元を探してゆっくりと歩き始める。
そしてその背が、階段から最も近くに位置する扉へと差し掛かった時だった。
「――ッ!!!!」
「っ……!! ふっ……!!」
キィ……と。
僅かに開いていた扉に気付かずにその背を預けた結果、会話を聞き取ることに集中していたテミスは僅かに体勢を崩し、部屋の中に倒れ込んでしまう。
瞬間。
鋭く息を呑む音と共に、扉の内に潜んでいた何者かの手によって、テミスはその身体ごと部屋の中へと引きずり込まれたのだった。




