983話 小さな策略
テミスが目を覚ましてから一夜が過ぎ、朝露すら凍て付くほどに冷え込んだ朝。
経過を観察すると拠点に居残っていたミチヒトは、業務の滞っているムネヨシと連れ立って融和派の館へと引き上げていった。
なんでも、テミスが床に伏している間はずっと、緊急性の高い必要最低限の仕事だけをこなし、姿をくらませてはこの拠点へと籠っていたらしい。
かくして、テミスは思いがけずして穏やかな時間を手に入れたのだ。
「ズズ……ふぅ……」
ムネヨシ達を見送った後、テミスは怪我の療養を理由にたっぷりと午睡を貪った後、布団の中でオヴィムの淹れてくれたお茶をすすって一息を吐く。
身に纏っているのは、浴衣のような薄い着物一枚と肩掛けに羽織った半纏だけではあったが、身を斬るかのように寒い外気とは異なり、部屋の中の空気はとても暖かいためとても過ごしやすかった。
ただ、唯一の不満といえば食事で。
テミスにはグズグズになるまで煮溶かした粥しか出される事は無く、毎度文句を垂れてはミチヒトにこっぴどく叱られたのだ。
「だが……」
ぼそりと呟いた後。テミスは口元に当てた湯呑の影でニンマリとほくそ笑むと、眼前で働き続けるオヴィムを眺めながら、一つの計略を練っていた。
幸いな事に一夜明けてあの妙な吐き気は収まり、多少歩いたり走ったりする程度ならば問題無い程度には回復している。
二度寝を決め込みながら、密かに傷の在った辺りの肌を抉り、ミチヒトの施した補肉剤とやらの効果を調べてみたが、どうやら今のところ身体の機能に異常は見られず、体中が酷く怠い事を除けば万全だと言っても良いだろう。
つまり、あんな乳離れの練習をする赤ん坊が食すような粥を食べる必要など無く、まともな食事を得る必要があるのだ。
「クク……」
そういう事ならば好都合。
頭の固いクソ真面目なシズクとカガリは今、私の提案でこの建物の現状を詳しく調べる為に席を外している。
聞けば、この建物自体は打ち捨てられてから日こそ浅いものの廃墟であるらしく、調べればいくらでも修繕個所など出て来るだろう。
たとえこれといって重要な修繕箇所が出て来なくとも、ただの空き家を拠点へと作り替えるのだ、諸々の調達に出かけさせるくらいの手間をかけさせる事はできるはずだ。
「ならば、あとは……」
胸の中で画策しながら、テミスはその視線をゆっくりとオヴィムへ向ける。
シズクとカガリが出かけるのならば、必然的にここに残るの私を見張る役はオヴィムになるだろう。
故に、彼を如何にして口説き落とし、まともな食事を用意させるかという事になる。
訳だが……。
「フゥム……」
ここに至り、テミスは微かに唸り声を上げて思考を巡らせた。
オヴィムとて、以前は魔王軍にて副官を務めた程の男だ。賄賂や誘惑の類が聞くとも思えんし、かといって駄々をこねたところで宥めすかされるのがオチだろう。
しかし、一切の情が無いという訳でも無い。
目を覚ました私にこうして暖かなお茶を淹れてくれたのも彼だし、朝食の粥の椀に一つまみ、塩を添えてくれたのもオヴィムなのだ。
ならばあと一押し。何かがあればオトせそうなものだが……。
「……テミスよ」
「ン……?」
妙案が出ぬまま悩み続けること数分。
ウンウンと唸るテミスの元にオヴィムが近付いてくると、声を落として囁くように語り掛けてくる。
その態度は彼にしては珍しく、まるで私以外の他者に聞かれては困るかようで。
テミスは盟友の珍しい態度に首を傾げながら、彼に倣って声を潜めて先を促した。
「すまんが一つ……頼みがあるのだが……」
「聞こう」
そう、酷く言い辛そうに切り出された言葉に、テミスは迷う事無く即答する。
一見してその姿は、自らは大怪我の療養中であるにも関わらず、我が身を顧みる事無く相談に乗る心優しき少女そのものであったが、爛々と輝く目の光がその心の内を物語っていた。
「少しの間、ここを離れても構わないだろうか? あと、ここに一人呼び寄せたい者が居るのだ」
「あぁ……」
だが、その内容を切り出されてすぐにテミスは得心する。
オヴィムは元々、アルスリードと共に諸国を旅しているのだ。だが、今この場に居るのはオヴィムのみ。
となれば、彼が求める事など容易に想像は付く。
「無論。療養の邪魔はさせん。訓練の一環としてで構わぬならば、私の補佐もさせよう」
「アルスリードか。今はどうしているんだ?」
「ムネヨシ殿に事情を話し、一部のスラムの住人と共にあちらの館で保護してもらっている。だが、現況を鑑みるのならば――」
「――そうだな。過激派の連中との対立の件もある。こちらに連れて来るべきだろう」
オヴィムが皆まで言い切る前に、テミスは小さく頷いて口を挟んだ。
今は小康状態にあるといえども、未だ融和派と過激派が争っている事に変わりは無いのだ。
そんな中、アルスリードというオヴィムにとっての急所……いわばオヴィムという強力な戦力に対して、人質たる価値を持つアルスリードを、彼の側から離しておく理由など無い。
「……恩に着る。幾らか対策も施したうえ、なるべく早く戻る故」
「待て。私も行こう」
「なっ……!?」
「ククッ……なぁに、少し歩くくらいならば問題はないさ。何より、今の私はこのザマなのだ。ここに一人残るより、お前の側の方がよっぽど安全だろう?」
口を挟んだテミスに対して、オヴィムは深々と頭を上げて礼を口にする。
だが、テミスはニンマリと笑みを浮かべると、驚きの声を漏らすオヴィムに朗々とそう宣言したのだった。




