980話 呼び声の先
……痛い。痛い。痛い。痛い。
神経そのものを焼き潰すような激痛を噛み締めながら、テミスは自らの意識が次第に薄れていくのを自覚していた。
それと同時に、脳を焦がす痛みも薄れていき、テミスは無限とも思えたこの苦痛から解放される事に胸を撫で下ろす。
「…………」
思えば、酷い悪夢もあったものだ。
一切の身動きすら取れない中、まるで腹に溶岩か酸でも流し込まれているような。
一体何をどうすれば、そんな夢を見る事になるのか。
呆れと共にクスリと微笑を浮かべようとして気付く。
私は何故、眠っていたのだ?
「ぁ……?」
急速に薄れていく意識の中で、テミスは朧気に霞む記憶を手繰り寄せる。
そうだ。確か、シズク達がスラムへ向かった後、私も……。
辛うじて思い返せた記憶は何故か、悠久の時間を過ごした写真のように色褪せていて、所々に酷いノイズすら走っているように思える。
そんな記憶すらも不自然に途切れているものの、それは自らが眠ったのではなく、我が身に何かが起きたのだ……と。僅かながらに認識するには十分だった。
……となれば、先程味わった地獄の痛みの意味も変わってくる訳で。
「っ……!!!」
だが、気付いた時にはすでに遅く。
ずぶりずぶりと、暖かで真っ黒な泥の中へと沈んでいくかのようにゆっくりと、しかし確実にテミスの意識は薄れていく。
このままではまずい。
テミスは背筋に走る悪寒に従い、不快な程に温かい泥の中で足掻こうとするが、そこにあるはずの手足はピクリとすら動く事は無かった。
「ぁ……」
気付けば、目の前に広がるのは真っ暗な闇だけで。
そこで漸く全てを理解したテミスは、唐突に訪れた受け入れ難い絶望に声を漏らすと、最早どうする事もできない現実に目尻にじんわりと涙を浮かべる。
そうだ。忘れていた。
一度味わったじゃないか。本当の死というヤツは、耐え難い苦痛の後に、甘い顔をしてやってくるのだと。
「…………」
結局、意味など無かった。
過ぎた力を与えられながらも己が正義を貫く事すら出来ず、かといってどこかのお人好しのように他者を救う事すらせず。あまつさえ、こんな道半ばで倒れる事になるとは……。
しかも、最期に抱いた思いが、我が身を襲う痛みからの逃避など。
「っ……!!!」
そう考えた瞬間。テミスはその心を身悶えするような口惜しさと恥辱に支配された。
もしも今、この私という意識に肉体があったのなら。間違い無く耳の先まで真っ赤に赤面していた事だろう。
やり直す事ができるのなら、せめてそれだけでもやり直したい。
自らの情けなさと不甲斐なさに、そんな思いが胸の片隅を過った時だった。
「……助けて下さいッ!!!!」
コツリ。と。
在るはずの無い右手に何やら慣れ親しんだ固い感触を覚えると同時に、漆黒の闇で塗り潰された世界の中に何処からともなく助けを求める声が響いた。
その声が、誰のものなのかは分からない。
けれど、今も尚残響として響く声には、確かに鬼気迫る必死さを感じて。
「ッ……!!」
――助けなければ。
最早、魂に刻み込まれているかと思うほどにすんなりと、身体が覚えているのだと言わんばかりに反射的に、テミスの意識が一点に集中する。
そして、目の前に蟠る闇を切り裂くように、テミスは渾身の力を込めて右手に触れた固い何かを眼前に向けて振り下した。
「ぁ……?」
瞬間。
まるで眼前を覆っていた分厚い布が払われたかのように、闇に閉ざされていた筈の視界が一気に開けると、見覚えの無い一室がテミスの視界に飛び込んで来る。
否。それだけではない。
考える事すら無く、反射的に振るった右手には愛用の大剣が握られており、その刀身は部屋の床を深々と抉っている。
そして何故か、その刃の下では驚愕の表情を浮かべたオヴィムが、テミスの膝の上に覆い被さるようにして身を縮めていた。
「はっ……? えっ……? 何……」
どうにか、意識が戻ったのは確実なのだろう。
身体は鉛のように重たく、頭はズグンズグンと芯から痛む。
だが、眼前に広がる景色に、一切の現実味を感じないのは何故だろうか?
僅かに視線を下せば自分は半裸だし、足元には事もあろうにオヴィムが縋り付いていて。
傍らには見知らぬ獣人が半ば腰を抜かしたような格好で尻もちをついている。
「…………」
まるで理解の追い付かない混沌とした状態。だというのに、傍らの男もオヴィムもまるで時が止まったかのようにピクリとも動かない。
だが、喉の奥から徐々にせり上がってくる気持ちの悪い嘔吐感が、着実に時が進んでいる事をテミスに示している。
そんな沈黙が、数瞬ばかり続いた後。
「テミスさあああああぁぁぁぁぁんッッッッ!!!!」
「ぐぶっ――!!?」
突如。
半身を起こした状態のテミスの背後から、シズクが割れんばかりの歓声と共にその身体を抱き締めたのだった。




