979話 苦痛と安寧の狭間で
「ッ……よし……。押さえて」
テミスへ幾つかの処置を施した後、ミチヒトは傍らに控えるムネヨシとオヴィムへチラリと視線を向けると、緊張感を孕んだ声で口を開いた。
「これから気付け……彼女の意識を薬で一時的に戻す」
「なっ……!!?」
「……この補肉剤は本人の魔力と認識を受けて作用する。相応の痛みはあろうが、これだけは彼女自身にやって貰うしかないんだ」
その言葉に思わず息を呑んだ二人に、ミチヒトは小さくため息を吐くと共に言葉を続ける。
だが、ミチヒト自身もこれから自らの行う治療は拷問に等しい苦痛である事を理解していた。
本来ならば、補肉剤など使いたくは無い。苦痛なく傷を治す手段を取り得るのならば、迷う事無くそちらを選ぶだろう。
しかし、こと肉体の欠損や身体の中身が傷付いている場合、この補肉材を除けばミチヒト達に治療する手段は残されていない。
「……毎度の事ながら、この時ばかりは自分の生まれを恨むよ」
ボソリ。と。
オヴィムとムネヨシがテミスの身体をしっかりと押さえるのを確認しながら、ミチヒトは自嘲気味に呟きを漏らした。
こんな時、もしも自分が魔族であったなら。噂に聞く治療魔法を用いて、苦痛なく患者を治す事ができたかもしれない。
だが、いくら理想を夢見たところで、この身が魔力に乏しい獣人族である事実が変わる事は無く。
それでも諦め切れず、血反吐を吐くような努力を続けても、得られたのは周囲の空間を浄化する程度の魔法だけだった。
「すまない。そんな事、今はどうでも良かったね。いくよ……まずは気付けだ」
「っ……!!」
そんな迷いを振り払うようにミチヒトは静かに開始を告げると、一枚の布の上に盛った粉末の山をゆっくりとテミスの顔へと近付けていく。
同時に、テミスの身体を押さえるオヴィムとムネヨシの顔に緊張が走り、その四肢を押さえる手に力が籠る。
そして……。
「……。っ……? ッ……!? ッ……!!!? ガハッ……!! ゴホッ……!! ゲホッ……!? な、何――!?」
ミチヒトの手が、テミスの鼻と口を覆うように、粉末の盛られた布を押し付けて数秒。
固く閉ざされていたテミスの瞼がピクリと動いたかと思うと、すぐに大きく見開いて激しく咳き込み始めた。
「――意識をしっかり保ってッ!! なるべく暴れないようにッ!!」
「痛ッ……!? なん……ッ!!? 何が……待ッ……!!」
「すまないッ……!!」
「許せッ……!!」
意識の覚醒を確認したミチヒトは即座に身を翻すと、ゼリー状の補肉剤が湛えられた器に手を伸ばしながら叫びを上げる。
一方でテミスは、目を覚ました途端に四肢を拘束されており、痛みと混乱の中で訳も分からず、もがきながら叫びを上げる事しかできなかった。
だが、テミスの身体が昏睡する程に深い傷を負っている事に変わりは無く、苦し気な表情を浮かべた二人の拘束を振り払う事はできない。
「今から、傷口に補肉剤を流し込むッ! かなり痛むだろうが、どうか堪えてくれッ!!」
「は……ッ!? 離……!? 補肉……? 傷……!? ま……待てッ!!」
「っ……!!」
直後。
弱った身体とはいえ、拘束を振りほどかんと暴れ回るテミスの力は凄まじく、オヴィムとムネヨシの顔に険しさが宿った。
しかし、そうしている間に補肉剤の器を掴んだミチヒトの手が閃き、混乱しながらも静止の叫びを上げるテミスの声を無視して、器の中身を腹の傷口へと注ぎ始める。
そして、器から零れた補肉がテミスの傷口に触れた瞬間。
「っ~~~~~~~~~~~!!!?」
それまで不規則に暴れ回っていたテミスはビクリと身体を跳ねさせた後、声なき絶叫を上げて硬直する。
だが、ミチヒトの持つ器から注がれ続ける補肉剤が止まる事は無く、テミスの腹にぽっかりと開いた傷口を、ゆっくりと満たしていった。
「ぁ……ぎッ……が……ぁ……ァッ……」
その間も、テミスは脳を焦がすような激痛にビクンビクンと跳ね回りながら、時折その身体を弓なりに反らして暴れ続けている。
しかし、どれ程もがき暴れ回ろうとも、全力で四肢を押さえ続けるムネヨシとオヴィムの拘束が解ける事は無く、テミスは突如として我が身を襲った狂おしい程の激痛に晒され続けていた。
そんな中。ミチヒトは空になった補肉剤の器を放り出して、目を剥いて痛みに堪えるテミスの顔を捕まえると、自らの顔を寄せて叫びを上げる。
「聞こえるかいッ!? 意識を傷に……腹に向けてイメージするんだッ! いつもの自分を! この傷を負う前の自分の身体をッ!!」
「ゥァ……ァ……ァ……」
「ッ……!! 駄目だッ!! しっかりッ……!! 意識を保つんだッ!!」
だが、ミチヒトの叫びも虚しく、テミスは見開いた眼を裏返して白目を剥きながら、口元から血の混じった泡を吹き始める。拘束を振りほどかんと四肢に込められていた力も次第に弱々しくなり、今や時折ビクビクと震えるだけだ。
「こ……れは……」
「ミチヒト……ッ!!」
「起きろッ!! 頼むッ!! 起きてくれッ!!! 後は君の力だけで治るんだッ!!!」
最早、拘束を続ける為に力など必要無く。オヴィムとムネヨシは、必死の形相でテミスへと呼びかけ続けるミチヒトに唖然とした表情を向けていた。
――失敗した。
声を枯らし、必死で叫び続けるミチヒトを眺めるオヴィムとムネヨシ、そしてカガリの胸の中に、ひたりとどす黒い絶望が這い寄ってくる。
そして、絶望が確信へと変わる刹那。
「退いて下さいッ!!」
鬼気迫った叫びと共に飛び出してきたシズクが、その両手で漆黒の大剣を引き摺りながら、テミスの手を押さえていたムネヨシを突き飛ばしたのだった。




