975話 絶望の褥
コッコッコッ……。と。
薄暗い廊下を足早に歩を進める足音が反響すしてくると、廊下の傍らで壁に背を預けて佇んでいたオヴィムが静かにその目を開く。
同時に、音も無く鎌首をもたげたオヴィムの手が、その腰に提げられた太刀へと伸びる。
だが。
「っ……はっ……すみません。遅くなりました」
「……何かあったのか?」
足音の主であるシズクが薄闇を抜けて姿を現すと、太刀へと伸びた手は静かに傍らへと下ろされる。
その代わりとばかりに、オヴィムは鋭い視線をシズクへと向けると、静かな声で問いを投げかけた。
「いえ……なんというか……町の者に少々……絡まれまして」
「それで……?」
「彼等を制圧した後、対処する者への引継ぎなどで、予想外に時間を食われてしまいました」
「フム……」
まるで、親に叱られる子供のように、シズクはオヴィムの向けた視線から目を逸らすと、もじもじと身体を縮こまらせて言葉を返す。
その心情は、彼女のぺたりと伏せられた耳と、外套の影で力無く垂れさがった尻尾が何よりも雄弁に物語っていた。
そんなシズクを前に、オヴィムは小さく喉を鳴らすと、視界の隅でしょぼくれる彼女を捉えながら、薄闇を見通すように廊下の向こうへと視線を向けた。
「……尾行は大丈夫のはずです。一応、諜報や隠密は私の得意分野ですから」
「フッ……そうか」
数秒の静寂の後。視線の意図に気付いたシズクが口ごもりながらそう告げると、オヴィムは柔らかな笑みを浮かべ、廊下の向こうへと向けていた視線をシズクへと戻す。
そして、壁に預けていた背を離し、真隣に設えられている簡素な扉を軽く叩き、静かな声で言葉を紡ぐ。
「シズクが到着した。開けてくれ」
「っ……!! っ……!!」
すると、扉の向こう側からバタバタと慌てたような足音が響いた後、カチャリという軽い音を立てて扉が僅かに開かれ、その隙間からぴょこりとカガリが顔を覗かせた。
「姉さ――」
「――シッ!! それより、容体は?」
直後。
シズクの顔を捉えるなりカガリが表情を輝かせるが、機先を制したシズクが大きく開けられようとしたその口を押さえ、眉根を寄せた厳しい表情で問いをかぶせる。
その背後では、オヴィムが彼女たちのやり取りを苦笑いを浮かべて眺めて居たが、シズクが問いを口にすると同時に、引き締まった厳しいものへと変化した。
「相変わらずよ。……と、言いたい所だけど、正直そろそろ厳しいわ。そっちは?」
「そう……手当に必要そうな物は片っ端からかき集めて来たけど……」
「……よね。あの戦いでただでさえ怪我人だらけなのに、患者が彼女では無理も無いわ」
「クッ……」
しかし、情報を交わす二人の表情はどんよりと暗く、その内容が芳しいものでない事は一目瞭然で。
故に。傍らで会話を聞いていたオヴィムも、拳を固く握り締めて悔し気に息を漏らした。
「……ごめんなさい。戸口でする話でも無かったわ。丁度いい時間だしオヴィムさん、見張り交代するわ」
「承知した」
「中ではムネヨシ様もいらっしゃるから、詳しい話はムネヨシ様から……」
「わかったわ」
カガリの言葉に二人は重々しく頷くと、カガリと入れ替わるようにして室内へと足を踏み入れた。
そこは、年季の入った宿屋の一室で。
数人用と思われる広い室内の真ん中に延べられた布団には、未だに意識の戻らぬテミスが横たえられている。
その傍らではカガリの言葉通り、ムネヨシが厳しい表情でテミスへと視線を注ぎ続けていて。
それに相まって、静まり返った室内に響く苦し気な呼吸の音が、緊迫した空気を醸し出していた。
「おぉ……シズクかッ……!! オヴィム殿もッ……!! それで……」
「っ……」
「っ……!!! そう……か……」
室内へと足を踏み入れたシズク達に気付いたムネヨシは、ビクリと肩を跳ねさせて顔を上げると、祈るように微かな笑みを浮かべて問いを口にする。
しかし、そんなムネヨシにシズクはただ静かに首を横に振ることしかできず、それを見たムネヨシは一瞬だけ痛みを堪えるかのように表情を歪めた後、がっくりと肩を落として言葉を続けた。
「……彼女をここへ運び込んでから数日。当初は主を失って日の浅いこの宿に感謝し、このまま上手く事が運ぶと思ったものだが」
「っ……!! まさか……」
「いや……今すぐ逝ってしまう事は無いだろう……恐らく。治療を施せた小傷など既に癒えかけておる……驚異的な生命力だ。だがこれ以上、我々にできる事は……せいぜい祈る程度か」
強く疲労の滲んだ声で続けられたムネヨシの言葉に、シズクはビクリと身体を硬直させて声をあげる。
だが、ムネヨシは柔らかにシズクの不安を否定した後、固く目を閉じたまま浅い呼吸を繰り返すテミスへと視線を向け、重苦しい口調でそう告げた。
「そんなっ……!! でもっ……!!」
「腹の傷だけは……深過ぎるのだ。現にこうして傷口を留めてはいても、血が失われ続けていることに変わりは無い。応急処置を続ければ多少永らえはしようが、下手に知識も経験も無い我等が手を施せば、逆に殺めてしまいかねん」
「そん……な……」
「グゥッ……ククッ……!! 万事……休す……か……ッ!!」
重苦しく、悔し気に語られたムネヨシの言葉に、シズクは言葉を失ってその場に崩れ落ちてしまう。
同時に、手から零れ落ちた包みが床に落ちると、結び目が解けて中に詰め込まれていた様々な医療物資が露わになる。
その背後では、硬く拳を握り締め、ギシギシと軋む音が響くほどに歯を食いしばったオヴィムが、眼前の絶望に耐え苦しむかのように言葉を漏らしたのだった。




