969話 生死の狭間
決着の瞬間は、呆気ないほど静かに訪れた。
飛び出した二つの影が交叉し、猛然と振るわれる武器が空気を裂く音が鳴り響く。
ただ……それだけで。
刹那の交叉の後。テミスとシロウは、互いに背を向けて静かに佇んでいた。
「っ……!!!」
静まり返った戦場に一陣の冷たい風が吹き渡ると、全身を赤く染めたテミスがグラリと身体を大きく傾がせる。
そして、大きく傾いだ身体は通り抜けた風が舞い上げる長い髪を残して、まるで冷たい石畳へ吸い込まれるようにゆっくりと崩れ落ちていく。
その身体の正面には、両の肩口から走る新たな傷が刻まれており、静かに溢れる血がテミスを濡らしていた。
だが。
「ゥ……グッ……」
ザクリ。と。
一歩。力強く踏み出された足が崩れていく身体を支え、同時に血の飛沫がボタボタと石畳を彩る雪の上に降りかかる。
……寒い。
朦朧とした意識の中。それがテミスの唯一感じ取る事のできた感覚だった。
最早痛みも無い。けれど、ここで倒れる事だけはできない。
しかしもう、最早戦う力はおろか、自ら傷を治療する力すらも残ってはいなかった。決して譲ることのできない意地が、辛うじて両の足に力を籠め、佇むだけの力を与えていた。
「カッ……ァ……」
一方。
一歩を歩く事すらままならないテミスの背後では、シロウがその両手に携えていた手斧を取り落としていた。
力を失った手から零れ落ちた一対の手斧は、ヂャリィンと派手な音を鳴らして石畳へと落ち、刃に付着したテミスの血が、周囲の雪にじわりと色をにじませる。
そして、一拍の猶予の後。
シロウは肩口から大きく袈裟懸けに斬り付けられた傷から派手に血を噴き出すと、ドザリと重たい音を立ててその場に崩れ落ちた。
「ハァッ……ハァッ……ハッ……ハ……」
ただ一人、戦場に佇む形となったテミスは、次第に浅くなっていく呼吸を繰り返しながらも、その場に立ち続けていた。
あの刹那。明暗を分けたのは間違い無く、互いの心持だったのだろう。
石畳の上へと崩れ落ちたシロウを振り返ることなく、テミスはどこか他人事のようにそう思い浮かべた。
両の手斧に乗せられた凄まじい気迫。言葉の如く、あの一撃には奴の命すらも込められていた。
つまり、全ての防御を棄て、確実に私を殺す為だけの力を込めて手斧を振るったのだ。
だからこそ。一撃の威力が下がった手斧を振りかぶった分だけ、私の大剣が機先を制したのだ。
「……皮肉なもの……だな」
ボソリ。と。
テミスは姿の見えぬシロウへ向けて、呻くように言葉を零した。
命すら棄てる程に全てを懸けたシロウの一撃と、ただ生き残るために振るわれた私の剣。
互いに相手を殺すという目的に違いは無く、その刃に乗せられた想いの丈にも刺して差は無かったのだろう。
唯一あったとするならば、その根本に根差したもの。
最後の最後で奴は己の命を手放し、私は己が生に縋ったのだ。
「だが……お前に……未来は無い……」
うわ言のように呟きながら、テミスは途切れそうになる意識を必死で繋ぎ止める。
そうだ。お前達の復讐に終わりなど無い。その生が続く限り憎しみをばら撒き続け、世界を呪い続ける。
そんなものが、復讐であってたまるものか。報復などでは断じて無い。
復讐とは、幸福を、心を、未来を奪われた者が、それを取り戻すための手段……再び歩き始める為の第一歩だ。
奪われたという事実は、決して奪い続けて良いという免罪符ではないのだから。
悲劇を振りかざして蹂躙を続けるお前達が、憎しみを乗り越え、未来へと向かおうとする者達の邪魔をしようというのなら。
その憎しみはすべて私が食らい尽くそう。
「ッ……ゥッ……」
敵は斃した。
……ならば、帰らなくては。
心の中に残った思いだけが身体を突き動かし、テミスはさらに前へと一歩を踏み出した。
この極寒の地に安息の場所は無い。私の傷付いた身体を癒し、疲れ果てた心が安らげるのはあの地だけだ。
安心しろ。私にはまだやるべき事がある。這ってでも帰り付いてみせるさ。
「クク……また……こっぴどく……」
また一歩。テミスはズルリと前へ歩を進めると、薄い笑みを浮かべて掠れ果てた声を零した。
そして。
「叱……ら……れ……」
微かに残った気力さえも尽き果てたテミスの身体が、薄れていく意識と共に前のめりに倒れていく。
そんなテミスの意識が完全に途切れる間際の事。
「……ッ!!」
倒れ伏したはずの冷たい石畳は、妙に柔らかくて暖かい気がした。




