968話 ただ、生きる為に
ガッ……ギィィィン……と。
甲高い金属音が響き渡ると共に、大量の血飛沫を辺りへとまき散らしながら、宙に投げ出されたテミスの身体が吹き飛ばされる。
「…………」
しかし、シロウは手斧を振り切った格好のまま小さく息を吐いた後、静かに姿勢を正して石畳の上に降り積もった雪に塗れてうずくまるテミスへと身体を向けた。
手に残る痺れは間違い無く、テミスの抵抗の証なのだろう。
つまり、テミスはシロウの剛剣を受け、弾き飛ばされる事で止めの一撃から逃れたのだ。
だが、たとえ止めの一撃を凌いだ所で、ただ痛みに苦しむ時間が長引くだけで意味は無い。
それは、雪の降り積もる石畳の上を赤く彩る血の華が、何よりも雄弁に証明している。
「っ……!」
――本当にそうだろうか?
改めて止めを刺すべく、テミスへ向けて一歩を踏み出した瞬間。
シロウの脳裏を、一抹の不安が閃光のように駆け抜けていく。
今、相対している人間の小娘は、間違い無く常識という枠からは外れた存在だ。
それは、かつて女神の存在を口にした人間であるにも関わらず、異質な力を持つ者達よりも桁外れで。
そんな少女に、儂はこの戦いの中で何度、度肝を抜かれた?
「フム……」
ぐぐ……。と。
石畳の上に積もった雪の上に、ボタボタと鮮血を流しながら身体を持ち上げるテミスを一瞥すると、シロウは一つ息を吐いて自らの考えを改める。
奴がこの斧を受けたという事は、まだ何か戦う手を隠しているに違いない。
それが如何なる手段なのかは想像すらつかない。自らの命をも捧げた一撃なのか、それとも刺し違えるだけの余力を残しているのか。
故に。たとえ、死に体の身に打ち付ける最後の一撃であろうと、その命を絶つ瞬間まで決して油断はしないと。
「……せいぜい地獄で誇るがいい。この儂に全力を尽くさせたのだからな」
テミスを睨み付け、苦々し気にそう呟いた後。シロウは自らの決意に従って、手斧の柄を両手で握り締めた。
ともすれば、酷く不格好で滑稽な構え。だが、そう見えるのも仕方の無い事。元より片手分の長さしかない手斧の柄を両手で握り締めているのだ。格好だけならばさながら、武器の扱いも知らぬ新兵が、恐怖に震えながら慣れぬ武器を掲げているようなものだ。
だが……。
「フゥンッ!!!」
気合一閃。
目を見開いたシロウが手斧へと力を籠めると、手斧はガギンッ! という音と共に二つに分かれ、一対の片刃の手斧へと姿を変えた。
そして、両手に手斧を携えたシロウは低く身を屈めると、ゆらりと斧を持ち上げて構えを取る。
如何なる反撃が待っていようと……。例えここで相打つ事になったとしても、哀しみを抱く同胞の為、お前だけはここで殺さねばならん。
そこには既に、剛力を以て巨大な戦斧を繰る重戦士の姿も、短槍と片手斧を巧みに振るう歴戦の猛者の姿も無かった。
あったのはただ、剥き出しの怨嗟。
まるで蟷螂の如くもたげられた一対の手斧が、眼前の怨敵を屠る為に冷たい光を放っていた。
「ぅ……ぁ……」
その一方でテミスは、腹を貫く激痛に悶え苦しみながら、必死で立ち上がろうともがいていた。
受けた傷はあまりにも深い。
手で押さえたところで、流れ出る血を止める事ができない。加えて、傷を受けた位置も最悪だ。下手をしたら幾らか内臓が傷付いているだろう。しかも、致し方なかったとはいえ、槍を抜く時もかなり乱暴な抜き方をしてしまった。
「ハ……ハハ……。これは死ぬかもな……」
ひくひくと引き攣った笑みを密かに浮かべると、テミスは弱々しい声で呟きを漏らした。
こうして地面に転がった所で、もう冷たさは感じない。あるのはただ、身体の芯から凍り付くいてしまうのではないかと思う程の寒さと、狂ったように腹を苛む激痛のみ。
痛みさえ堪える事ができれば、無理矢理に身体を動かして、戦う事はできるかもしれない。
だが……その後はどうする?
ここは、ファントではなくギルファーなのだ。イルンジュのように信頼できる優秀な医師も居なければ、落ち着いて傷を療養できるねぐらも無い。
これ程の手傷だ……たとえ治療に専念したとしても、動けるようになるだけでも数日は要するだろう。
だけど……。
「……んで……たまるかッ!! こんなッ……所でェッ!!」
血を吐くような掠れ声で叫びを上げると、テミスは全身に力を込めて立ち上がろうともがく。
医者だと? ねぐらだと? そんなもの知った事かッ!!
私は生きてファントへ帰るんだッ!! あの暖かな幸せを守る為にッ!! 二度とアリーシャを泣かせないためにッ!!!
その為には……。
「ッ……!!!」
ガキン。と。
テミスはギラリと目を見開くと、石畳に大剣を突き立て、激痛を堪えて立ち上がる。
……目の前の敵を……殺すッ!!!
最早、怒りの為でも仲間の為でもない。ただ、生きる為に。テミスはギラギラと殺意を迸らせながら震える両の足で立ち、ズルリと鈍重な動きで大剣を構えた。
眼前には、両の手に手斧を構えたシロウが、静かにテミスを見据えている。
「――ォオッッ!!!」
「――ゼァァアアッ!!」
そして、一瞬。
武器を構えた両者の動きがピタリと止まった瞬間。
まるで示し合わせたかのように、二つの咆哮が冷たい街に響き渡ったのだった。




