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2.虹の麓

 


     〇




(ここって、カフェだったんだ……)


 濡れた髪をタオルで拭きながら、古そうなイスに腰を落ち着ける。

 ギシギシと音を立てる木製のイスは、今にも私の体重でつぶれてしまいそうだった。


 ほどなくして、テーブルの上には紅茶とケーキとが運ばれてきた。


「はい、どうぞ。味に自信はないけど、よかったら召し上がれ」


 どうやら彼の手作りらしい。

 チーズケーキだろうか?

 少し焦げ目が目立つような気もするけれど、こんがりと焼きあがっていて香ばしい匂いがする。


「な、なんだかすみません。雨宿りをさせてもらった上に、お茶とケーキまで」

「気にしなくていいよ。これは僕が勝手にやっているだけなんだから」


 そう言って微笑んだ彼の顔は、とても優しげだった。


 そのやわらかな雰囲気に触れて、それまで荒んでいた私の心は少しずつ落ち着きを取り戻し始める。


(良い人だなあ……)


 お店の見た目はちょっと怖いけれど、店主である彼自身はとても優しい人なのかもしれない。


「それで、さっきはどうして泣いていたの?」


 聞かれて、私は例のストラップのことを思い出した。


「その、私……ストラップを探しているんです。学校の帰りにどこかで落としちゃったみたいで」

「ストラップ?」

「はい。小さなテディベアのストラップで……友達から貰ったものなんですけど」


 私が説明している間、彼は私の向かいに座って真剣な眼差しをこちらに向けていた。

 私の話を真面目に聞いてくれているのだと一目でわかる。


 やがて私が説明を終えると、彼は私から視線を逸らさずに、


「大事なものなんだね。大切な友達から貰ったものだから」


 そう、静かな声で理解を示してくれた。


 そんな彼の優しげな声を聞いたとき、私は心のどこかで安堵を覚えた。

 それまで一人で悩んでいた私の心を、理解してくれる人がいた――そう思ったとき、一度は引っ込んだはずの悲しい思いが再び溢れそうになって。


 気づけば私は、また泣いてしまっていた。


「! ごめん。何か気に障ったかな?」


 彼は慌てた様子で私の顔を覗き込む。


「いえ、ごめんなさい。……もう、大丈夫ですから」


 私はタオルを顔に押し当て、必死に嗚咽を噛み殺した。

 なんとか気を落ち着けようと、すかさず紅茶へ手を伸ばす。


 年季の入ったティーカップに注がれた、きれいな色の紅茶。

 それをぐっと一気飲みするように口へ含んだとき、


(……まっず!?)


 あまりの苦味に、思わず噴き出した。


「あっ……。大丈夫?」


 たまらず咳き込んだ私に、彼はそれほど驚いた様子もなく、すぐさま私の隣に立って背中をさすってくれた。


「ごめんね。やっぱり美味しくなかった?」

「……やっぱり……って、どういうことですか……?」


 涙目になりながら、私は掠れた声で尋ねた。


「うん……。実は僕のお茶、美味しいって言われたことがなくて」


 そう言って、彼は困ったように苦笑した。


 美味しいと言われたことがない。

 それって、カフェを営む者としてはかなり致命的では?


「そ、そうなんですか……」


 あ、あはは、と私も苦笑する。


 確かにこの味ではフォローのしようがない。

 まるで茶葉をそのまま食したときのような、とんでもない苦味が凝縮されている。

 一体何をどうすればここまで不味いお茶が出来上がるのか。


(でも、実はすっごく身体に良いお茶なのかもしれないし……)


 そう、ポジティブに考えることにした。

 良薬は口に苦しって言うし。


 けれど、あまりの苦さに舌はビリビリと痺れている。

 せめて口直しをと、今度はケーキに手を伸ばす。


 しかし。


(! あっま……!?)


 反射的にリバースしかけたそれを、両手で必死に抑え込んだ。


 超絶、甘い。

 砂糖の入れ過ぎだろうか。

 これは百パーセント、身体に悪い。


「ごめんね。やっぱりケーキもだめだった?」


 わかっていたと言わんばかりの彼の反応に、私もさすがに疑いの目を向ける。


「あの。失礼ですが、もしかして……お料理はあまり得意じゃないとか……?」


 無礼を承知で聞くと、彼は気まずそうに頬をかきながら、


「うん……。実は料理だけといわず、家事全般が壊滅的にダメで」


 ごめんね、と、何に対してかわからない謝罪を彼は口にする。


 確かに彼の言う通り、家事は全く出来ないらしい。

 料理もダメなら掃除もダメ。

 それによくよく見てみると、彼の着ている白いシャツも襟元はヨレヨレで、全体的にシワがよっている。

 おそらくは洗濯やアイロンがけも下手なのだろう。

 なまじ顔が良いだけに最初は気づかなかったけれど、彼の身なりはどことなくみすぼらしかった。


「……変だって思われるかもしれないね。料理も出来ないのに、カフェをやってるなんて」

「え。あ、いえっ。そんなこと……」


 正直、否定はできない。


「でも、あの……もう少しお掃除をした方が、お客さんも入りやすいんじゃないですか? この建物、結構古いですし……ぱっと見た感じじゃ、ちょっと入りにくいっていうか」


 差し出がましいとは思ったけれど、少しだけ助言してみる。

 さすがにこの有様では、ここに店があること自体、誰にも気づいてもらえないかもしれないから。


「入りにくい?」


 と、なぜかそこだけびっくりしたように彼は聞き返した。


「えっ? あ、はい……」


 予想外の反応に、私も思わず身構える。

 それまで当たり前のように全てを受け止めていた彼が、急に意外そうな顔をしたので、


「す、すみません。言い過ぎました……」


 私は慌てて頭を下げた。


「いや、謝ることじゃないよ。教えてくれてありがとう。入りにくい雰囲気があるのなら、あの人もきっと、ここに来てはくれないだろうから……」

「え?」


 最後の方は、ほとんど独り言のようだった。


「それより、早く君のストラップを探さないとね」


 そう言うと、彼はおもむろに席を立った。


「え。探すって……?」


 私がぼんやりとしているうちに、彼は店の入口の方へと歩いていく。


 まさかとは思うけれど、一緒に探してくれるということだろうか。


 彼は入口の扉を開け、未だ雨の降り続ける外へと繰り出そうとする。


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 私は慌てて彼の後を追いかけ、その細い腕を引き止めた。


 どこまでも優しい彼の、その気持ちは嬉しいけれど。

 さすがにこれ以上お世話になるわけにはいかない。


「あのっ。ストラップを探すのは私一人で大丈夫ですから。それに今はまだ雨も降っていますし……」

「でも、もうじき日が暮れてしまうよ。暗くなったら見つからないかもしれない」


 私の手に引き止められた彼はそう言って、どんよりとした夕空を眺める。


 確かに、このまま夜になってしまえば捜索はさらに困難を極めるだろう。


 でも。


「そのときは、また……朝になってから探すので大丈夫ですよ」


 空元気を出して、私は言った。


 本当は、朝までなんて待てない。

 たとえ徹夜をしてでも、私はストラップを探すつもりだった。


 だってあれは――いのりちゃんから貰った、私の大切な宝物だったから。


「いいや、いま探そう。心配しなくても、必ず見つかるよ」


 そう、彼は言った。


「え……?」


 私は情けない顔をしたまま、彼の顔を見上げる。


「大切な友達がくれた、大事なものなんでしょ。大丈夫。君がその友達を大切に思うのなら、きっと神様は味方してくれるよ」


 そう言った彼の声は、相変わらず穏やかではあるものの、どこか力強く私の耳に響いた。


 そして、私の不安を取り払ってくれるような、そのあたたかな眼差し。


 彼を見ていると、まるで本当にすぐ見つかるような気さえする。


「さて。ちょっと待っててね」


 彼はそう言うと、再びこちらに背を向けた。

 そうして胸の前で両手を組んだかと思うと、静かに目を閉じ、何か祈りを捧げるようにして頭を垂れる。


「?」


 一体何をしているのだろう。


 首を傾げながら、私が静かに待っていると、


「……あ」


 不思議なことが、起こった。


 それまで地面を叩きつけていた、強い雨。

 それが、急激にその勢いを衰えさせたのだ。


 どんよりとしていた空が、少しずつ光を取り戻していく。


「雨が、止んだ?」


 私は建物の外に飛び出して、雲間に現れた夕焼け空を仰いだ。


 雨は確かに止んでいた。


「虹も出たね」


 そう彼が言って、私はさらに視線を巡らせた。


 彼の言う通り、茜色に染まった空の片隅には薄っすらと七色の橋が架かっていた。


「……いま、何をしたんですか?」


 私は彼を振り返って聞いた。


 けれど、私を見下ろす彼は穏やかな笑みを浮かべたまま、


「ほら、あそこ」


 と、虹の方を指差して言った。


「虹の麓には、宝物が眠ってる……って、昔から言うよね。君の探し物も、きっとそこにあると思うよ」

「虹の、麓に……?」


 言われて、私はまた虹の方を見る。

 その場所は私の家のある方角で、確かに通学路の途中だった。


「行ってみようか」


 言いながら、彼は私の手を取って雨上がりの道を歩き始めた。


 触れた手のぬくもりが、私の胸を高鳴らせる。


「って、えっ……ほ、ほんとに行くんですかっ?」


 ただの迷信だろう、と思いつつも、私は彼に連れられるまま虹の麓へと向かっていく。


 腕を振り解くことは簡単にできる。

 けれど私は、あえてそれをしなかった。


 なぜだかわからないけれど、虹の麓に行けば本当に見つかるかもしれない――と、私は心のどこかで、彼の言う迷信を信じ始めていたのだった。






     〇






「……ああっ!」


 思わず、そんな声が出た。


 彼と二人でやってきた、虹の麓。

 私の家のすぐそばにある花壇――その隙間から、見覚えのあるテディベアがちょこんと顔を覗かせている。


「ほんとに……あった……?」


 まさかと思いながらも、私は彼の手を離して、そこへ駆け寄った。


 雨に濡れ、土にまみれた手作りのぬいぐるみ。

 私はそれを壊してしまわないよう、そっと拾い上げる。


 首元に赤いリボンを付けた、愛らしいテディベア。

 それは正真正銘、探していたストラップだった。


「す、すごい。本当に虹の麓にあるなんて」


 信じられない。

 思わず涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、まじまじとそれを見つめていると、


「よかったね」


 と、背後から彼の声が届く。


 そこで私はハッとして、まずはお礼を言わなきゃ、と後ろを振り返った。


「あ、あのっ――」


 しかし。


「あれっ?」


 振り返った先には、すでに誰もいなかった。


 雨上がりの澄んだ空気の中、私一人だけがそこに取り残されていた。


「……もう帰っちゃったの?」


 さっきまでは確かに私と手を繋いでいた彼は、一瞬にして、まるで蜃気楼のように、忽然とその場から姿を消していたのだった。


 

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